2018年5月5日土曜日

ベルリン日々問い 7 「前提」に囚われず新しいノリはつくれるのか?


観察する視点が偏っていてもそれに気づかなかったり、ある前提をみんなで共有していて、そこ自体に歪みがある事もある。でも、みんなで共有しているという感覚が、「それが普通」「それが正当」であるとなってしまう場合が多い。歪みを感じて、そこから逸脱したいと思った時、それを理解してもらう事の難しさは、そういった「前提」にある事も多い。またその前提にたいして批評的に物を言う時に、やっぱり違う「前提」からの固定された視点でもって批評というより否定を平気でやってしまうことも多い。どちらもできれば避けたいし、お互いそれを避ける方法論を見つけたいとも思う。また、その「前提」を共有する中にある周波数みたいなもの、ノリと言い換えてもいいけれども、そういったものがあって、そこにノレない場合は会話が噛み合わないままどこにも行きつけなかったりもする。だから、そのノリをその場所で新しくみつけられるような関わり方があったらいいのかもしれない。あるいは相手のノリや体の状態に対して萎縮してしまうような場合もあって、その体の内側を観察するとどこかが本当に縮こまってるので、力を抜いたまま相手に対することさえ難しいこともあるから、簡単ではないが。

例えば、息子をホームスクールで育てているときに、この苦しさをかなり味わった。検証を一緒にしてもらえるような対話にはなりにくかったから。
教育について、食について、文化について、政治的傾向について、様々な問題についても言える。


ネトウヨと言われたりする人たちのノリの中にも、よく聞いてみるとわかる部分があって、それは戦争のあとの、日本で起きたことをもう一度内省する前に、外からの裁判という形で様々な可否を決してしまったという部分だ。そうなると、その結果に対して「不当」と感じることはある意味自然なこととも言える。子供が誰かに迷惑かけた時に、自分で何が起きたかを検証して反省する前に「反省しろ」「あやまれ」と言われると反発しか生まれないということもある。そういった、経緯をもう一回観察し直したり、それとは別に検証をさまざまな角度からしてみる、というのは必要なのかもしれない。そういうプロセスを、意見の違う人とどれだけ重ねられるかによって、関わりを創造的にすることもできる気がする。

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