2014年2月25日火曜日

共有と統一の違い

物事を人と共有する感覚というのは、統一される、あるいは分配されるのとは大きく違う。同じ教科書を使うことで何かを共有するかというとそういうことでもないだろうと思う。ただ、みなが同じテレビを見ている、あるいは同じコマーシャルを見ていることで、同じ情報を共有することが、何かを共有している感覚であるように思うこともあるだろう。でも、何かを共有する感覚を本当に得るために必要なことは経験を共有するということだと思う。そこに統制する人がいる場合と、いない場合でもずいぶんその感覚は変わってくる気がする。例えば、指導者に指揮されて何かをやる場合と、リーダー的な存在はいるものの、対等な関係のメンバーで試行錯誤しながら何かをやるのとでは大きく違う。

民俗芸能を見ていると、その芸能を行うことで共有感覚を強く醸造していると感じることが多い。ただ、「みんなで楽しく」とか「みんな一緒」というような安いキャッチコピーが全く当てはまらないような、理不尽さや、意味不明さ、過酷さなどが付きまとうのだ。しかし、それゆえにその共有感覚の濃厚さも半端ない。それが一体なんなのか?それに近いことをやろうとしても、そういった濃さには到底近づけない。その秘密についてずっと考え続けていて、なんとなく見えて来たこと、それは強度の拮抗を起こして場を練っていこうとする行為なのではないか?と思えてきた。そして、その拮抗は、人々の共有される強度のイメージとともに呪術性をも持ちうるし、宇宙的な規模で影響を与えうるような何かとしてさえ感じられてくる。

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