2014年3月17日月曜日

拮抗に快がある

赤ん坊が生まれる時、胎盤は赤ん坊を断続的に締め付けて、そこから脱出しようとする。そのとき、おそらく相当強い抵抗に対して抗う感覚を伴うはずだ。それも拮抗と呼んでいいのではないか?それは、もちろん母子ともに苦しい時ではあるのだが、同時にすごく「キモチイイ」時間でもあるはずだ。そうでなければ生まれてこれないはずだ。庭や畑を観察していると、草は全力で生えようとするし、虫は全力で葉を食べ、あるいは虫を食べ、木もうかうかしていると幹を虫に蝕まれてしまうのだ。そうならないよう、それぞれの生命の主体と言えるような何かが抗う。お互いに抗いあう状態を拮抗と呼んでいいと思う。そこにはおそらくなんらかの快があるのだろうと思う。人と自然にしてもそうやって長い間抗いあいながらなんとかやってきた。

それが、ある段階のあるシステム転換によって、拮抗が起きないような状態にしていく力が働き始めたのだと思う。それが「管理」であり「統一」であるのかもしれない。そういう方向に力が動くことは、おそらく自然のシステムと大きく違う何かなのだろう。そして、バランスを著しく崩す方向に何かが動く。

人と人が関わるときに、拮抗しあいながら共有するコミュニケーションを長いこと続けてきた中で、そういった拮抗を起こさないようにする、人と人が直接向き合わない方向と言ってもいい、そういう方向に関わり方が移行して行く。ものごとを共有できない方向であるのだから、断絶していったり、不信を基本とした関係になっていったとしても不思議ではない。隣人同士であっても、元夫婦であっても、何かがあったら、法関係の人や警察に報告する。これを線引きのシステムといってもいいだろうか?

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