2011年12月10日土曜日

気分の共有の危険

気分を共有する、と言えばツイッターやフェイスブックもそういう効果をもたらしてくれる。
結局人は時代を超えてもそれを求めていることは確かなのだろう。
ただ、別の面では多様な価値観を認めてもいる。と同時に、自分の気分を誰かと共有したいという基本的な欲求があるように思う。だから、会話とかでもほとんど意味をなさない「お天気」「テレビの話題」なんかで気分を共有した時間を過ごしたいと願う。そこに、「違う」気分を持ち出されると気分を害してしまうこともある。私も、そういうところがあるなあと思う。逆に、あんまりそう思わなくても「そうだよねえ」と波長を合わしてしまうこともある。それを望んでいる空気を読んでいるのだ。そういうことの延長線上に「空気読み」というのはあるのだろうか?
でも、空気を読ませる強い圧力を感じる時はその圧力がいったいどこから発せられているのか分からないというときがある。もう、圧力の主体が分からないのだ。きっと空気の中で圧力も感染するのだろう。それも連鎖の一つなのだろうか?

人が別々の感じ方を持っていることを許容し受け止めながら、何かを共有している満たされた感覚を持ち合うことはできないのだろうか?

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