2012年7月17日火曜日

媒介する次元

人が「個人」という線引きによって自分を認識するということと、線引できない共有された意識の層というのと、またそれ以外にも様々な意識のありよう、あるいはありようの可能性というものがある。寅雄氏が見て来た盆踊りの、歌い手が自分の中から節に即興でうたをのせるその感じ、そういうのが本来日本の中で、あるいはアジアの様々な地域で「うた」と呼ばれるものだったろう。かごめかごめ、とうりゃんせ、そういった子供のうたも、わらべ歌も、百人一首も、七五調で歌われた都々逸も、「私の思い」というような線引きされた個人の思いなどではなく(たとえ恋のうたであっても)、何かしら共有された気分を言葉に浮かび上がらせる媒介者みたいな存在だったんじゃないだろうか?「dividual」について考えるきっかけになりそう。とはいえ、ずっと同じことを考えているような気もする。自分の中にそういう層があることを確認できるのだろうか?実験してみたい。どうやったら実験できるだろう?

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