2020年3月4日水曜日

コロナが流行って思った事

正確な情報を巡って様々な対立が生まれる。
それは間違った情報が蔓延する事の恐怖心みたいなものがあるからかもしれない。その信憑性は、「政府の」発表とか「WHOの」発表とか、できるだけ大きな機関の正式な発表に依存することが多い。しかし、今までの歴史的な観点から言えば、大きな機関の正式な発表でも様々な嘘や捏造は起こってきた。だから本当に何を信じれば良いかわからないから、様々な憶測が生まれるし、そのぶん、それを利用したフェイクな情報も生み出される。片や、それぞれ自分の感覚を基にした見解も記事になっている。それらは科学的であるかどうか、というような検証はしていないけれど、自分が生きてきて感じてきたことを基にしていると思われる。そういうものに対しても、それにさしたる害がない内容であるにもかかわらず「科学的」であるかどうか、真実であるかどうかなどの観点から手厳しい批判を投げる人が結構いる。311が起きた頃からそれは何度も繰り返されてきた。
しかし、何が「科学的」であるか?その信憑性はどうやって確認できるのだろうか?現在正式に発表されている「科学的」と言われている内容であっても、必ず別の見解から間違っていると言う意見がある。全ての物事には、別の見解というのが常にあるものだ。そこで、自分の見解が絶対に正しいという態度で批判し合うほど無駄なことはないと思う。様々な見解があるということを前提として、投げかけや対話がなされるべきだし、その中でお互いにいろいろ考える材料にもできる。

科学的な事は、様々な仮説に対する実験や実践によって確かになっていくかもしれないが、今の所、解明できないたくさんの事が含まれている。今正しいと思われている「科学的」な正解が、覆される可能性はいつでもある。
また、今は「科学的」に正解という認識がないものであっても、実際に有効である経験を積み重ねる事もある。

また、何が「本当の情報」であるか?見極める事はとても難しい。だから結局は自分がどう感じるか?ということがとても大切になると思う。本当に危険かどうかを判断するとき、全てを検証していては間に合わないときがとても多い。結局は感に頼るしかない。感を磨いていくしかない。感を磨くには、まず物事を観察することから始めるのが良いだろう。手始めに自分を観察するのが一番良いと思う。自分がどう感じているかを言葉にする。しかし、自分が「感じていると思っている」ことの下に、本当に感じていることが隠れていることはとても多い。その隠れている部分が見えてくるまで観察を進めないと、感を磨くことはできないだろう。
そして、自分の感覚を使って何かを考え、「問い」が浮かび上がってくる、そしてそれを推敲してあらたな「問い」が浮かび上がってくる、その繰り返しによって自分なりに考えることができるようになる。


「偏った考え」VS「常識的な考え」という構図が生まれてしまうのはなぜだろうか? そのような印象をあたえる仕組みが埋め込まれた記事を見ることが最近多いと感じている。それはある種の印象操作であり、そこに何がしかの目的があるのではないだろうか?

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