2020年3月25日水曜日

街の観察 感じてること 人とは違う生理的恐怖について 2020年3月24日

昨日の夜「サバイバルファミリー」という映画を見た。或る日突然電気が使えなくなるという設定のパニックものだが、映画の中では情報が全く入らなくなるし、次に状況がどう変わるか全く予測がつかないので人々は自分の感覚をフル活用して、あるいはどうなる可能性があるかを予測しながら各自が自分の判断で動く。独自に判断した人ほど、安全を確保するのが早くなるような感じで、指示や変化を待っていることによって事態が悪化する。パソコンもスマホも全く使えなくなって、全身の感覚を使って生き残るための判断を見つける感じだ。今はその逆で、独自に判断してはいけない。全身の感覚を使うリアルな世界から切り離され、また人との関わりもオンラインのみになり、パソコンやスマホの中に世界があるようにそこでのやりとりを生きる。

今日は昨日より精神状態が良いようで午前中に英語の勉強とかフローティングボトルのウェブでのまとめに関することをやったりして過ごし、午後はホームセンターに行った。どんどんお店が閉まっていくので開いているお店は本当に貴重だ。でもいつ閉まるかわからない。人が店の前にたむろしているなあと思って見ていたら、入場制限があってお店の前で列を作って待っているらしかった。しかし、人と人の間が1.5メートル離れているので並んでいることに気づくまでに時間がかかった。

人々がみんな私のように感じているわけでは当然なく、問題なくこの状況を楽しんでいる人や、引きこもるのが楽しいから大丈夫という人も少なくない。また、必要な施策だと理解できれば苦痛はないと感じている人も多いかもしれない。人によって、何に対して反応するかは違ってくるので当然だ。私の場合はおそらく、一つの目的のために同じルールを全員で守る、しかもそのルールが段階を踏んで厳しくなるという状況がとても苦手なのだと思う(この部分だけ見るとまるで2018年に初演した『点にダイブ』のようだ)。この施策は必要なことだと頭で理解できていても、生理的な恐怖感みたいなものがあるのかもしれない。また、人と人の間から立ち上がる何かが人を支えるように感じることが多く、ベルリンの街ではフェイスブックではきっと絶対友達にならないような、繋がらないような種類の人たちであっても、「間」の感覚を分かち合ってるような気持ちで生きてこれたということかもしれない。だから、「切り離されている」という感覚がとても強い。ネットで繋がるというのとは全く別の種類の共有感というものについて考えさせられる。今私が求めていることは、魂に水をやるようなこと。魂に触れる「人の正直さ」みたいなものなのかもしれない。
でもだいぶ落ち着いてきた。また、こういう状況を経過することが自分にとって必要だったのだとも思っている。

自分の危機感を察知していろいろな人がメッセージやコメントをくれてとても心強く暖かく感じている。そういう意味でもちろんネットでの繋がりも本当に助けになっている。

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