2020年3月18日水曜日

街の観察 をしてる自分の観察 2020年3月17日

コロナウイルスに関してそれぞれの国々の対応がだいたい2種類くらいの違った方法で選択されているような感じだろうか?出揃ってきた。政府機関がそれらを判断するのにも時間がかかる。初めての事が多くて、本当に何が正しいかは後になってみないとわからないことが多いだろう。個々人の感じ方、考え方は違うけれど、こういうときは感じ方を置いておいて決められたルールに従わざるを得ない。だからこそ、自分が感じている事や、そこから類推できる事を自分から手放さないようにしなければならないとも思う。なぜなら、この状況が長く続いていけば、自分でものごとを判断してはいけないと考える癖がついてしまうかもしれないのが怖いから。「公共のモラルとして今自分に課されていること」と「自分が感じていることから見出された内なる基準みたいなもの」のズレをとにかく観察しながら、また友人との対話を通じて自分の感じている事や考えている事を対象化しながら、今の時期にできる自分の学びみたいなものを獲得したい。

感覚的な判断は否定せざるを得ず、専門機関がカウントされた数字やシミュレーションを元にしたデータが真実を告げていると信じなければならない状況の中で、また専門家によって違った見方と判断がある。

けれども、何が真実かを問う前に起きていることが自分にもたらす感覚、感情、思考というものがあり、それは受け取り手それぞれに独自なものだ。そして、それらの物事から何かを学ぶ事は誰にでもできる。何かが起きているときそれは全体に対してであるように見えて、個々に語りかける声でもある。その声に耳を傾けて、あらためて観察してみたい。

街の観察
友人とお茶をしながら情報交換して、ベルリンの人たちは思った以上に「外に出歩かずにじっとしているべきだ」と思っている人が多いのかもしれないと思った。けれども、実際街を歩いているとリラックスして人と交流している人が普段と変わらない程度いるように見える。カフェは日本人の方がカウンターにいて、彼女とのちょっとした会話がとっても癒される。直接人に会う効果みたいなものを強烈に感じてしまった。カフェの中は机と机が指示通り離れて置いてあり、何人かがお茶している。通りに面した席は人でいっぱいだ。スーパーの前で偶然知人にあって情報交換すると、やっぱり、また違った感じを持っているのがわかったり。やっぱり人によって、かなり感じ方考え方は違うのかもしれない。友人と別れて、駅の陸橋で背中に夕日を浴びながらしばし佇む。向かい側のSバーン入り口あたりで男性がギターを奏でている。道路の真ん中にある柵にはたくさんのイベントのポスターがあり、3月、4月のもう行われなくなったイベントのエネルギッシュな宣伝文句が並んでいる。ギターを奏でていた男性の所に行って投げ銭をすると、とても嬉しそうな笑顔を向けてくれた。そういうのも、なんか癒される。

自分の観察
何かが喉にひっかかったように違和感を持っている。こういうときは、自分の中に何かしらのわだかまりがあるときが多い。具体的に何にたいしてかよくわからないわだかまりがあって、それを言葉にするのも難しい感じ。自分の中にあるその違和感がなんなのか?これからゆっくり観察したい。両肩が少し内側に縮んできている。ネットとの距離の取り方が必要だと感じている。考え方の違い以上に感情みたいなものに反応してしまうのが苦痛だと感じている。

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