2020年4月5日日曜日

ヴァーチャル会話の可能性 テンペルホーフの小さな事件 2020年4月5日

久しぶりに日本の友人たちとZOOMで話をした。全部で7〜8人くらいだったかな。綺麗ごとだけじゃなくてそれぞれに実感してる本音みたいなことを日本語で言える感じがとても久しぶりで、その延長線上でZOOMでやれるアイデアみたいなことを考えることができた。でもそれは、実際に今まで一緒に会って話して一緒にダンスのイベントを立ち上げて、でその間もいろいろなやりとりを見解の違いとか乗り越えて、時には険悪な時もあってもそれも乗り越えて、一緒にお酒を飲める関係を築いてきたからかもしれない。身体感覚の中にリアルな記憶があって、それが話している間に自分で勝手に補完しているような感じ。と同時に、やっぱりどうしようもなく空虚に感じてしまうのは実際にはそこに居ない、一緒に居たいけど、そこに居ないという現実が逆に浮き彫りになってしまうような感覚もあるからかもしれない。例えば昔の人は写真に魂を吸い取られると思っていたという話を聞いたけど、なんとなくその気持ちも少しわかる。でも、「本当は居ない」ことを受け止めつつやれることなら探せるかもしれない。

・身体感覚を共有するネタ 
お互い体の同じところに洗濯バサミで挟んで踊る。
一人が画面の向こうで自分の体の一部を痛めつける。相手がそれを当てる。

・第六感を鍛え合うネタ 
一人が画面の向こうで文字を書く。相手がそれを当てる。
一人が画面の向こうで手に何かを持つ。相手がそれを当てる。

・不在感を逆手に取る
画面上で最初は映像と音声の両方を通して話すけれど、少しずつ情報を限定していく。例えば画面を出さずに声だけにする。あるいは画面は出てるけど筆談にする。画面は出てるけど身振りだけで相手に何かを伝える。画面も出さないで声も出さないで、身振りだけで相手に何かを伝える。

街の観察
久しぶりにテンペルホーフに行った。凧の糸がまだ絡まっていたので、ずっと凧の糸をほぐしながら紅茶とお菓子を口にしながら、息子と「生と死」についての話をした。人は死を受け止めて生きられるのかどうかについて。死ぬ瞬間に死を受け止めるために宗教はあるんだろうなあとか、それが受け止められるのが良い宗教なんだろうなとか、人に殺されても死を受け止められるかどうかとか、「死」も生きることに含められるのかとか、輪廻の考えが死を受け止めやすいのではないかとか。他にも何か哲学的な話をしてたと思うけれど忘れてしまった。しばらくすると、遠くからズンチャズンチャという低い音がリズムを刻んでいるのが聞こえてきた。ドイツの人たちはこういうリズムが好きだよねえとか、話をしていて、もう凧の糸は直らないまま日が沈みかけたのでぼちぼち帰ろうか、と帰りかけた時、自転車に乗っている二人組が止まったままじっと何かを見ている。でも何を見ているのか最初はわからない。他にも止まったまま何かを見ている人がちらほら、見ている方を見てもよくわからない。でも音はどうやらそこから鳴っている。それで少しずつ音の鳴る方に近づいていくと、遠くで人が踊っているのが見えた。最初は赤いマントみたいなのを羽織っている女の人が踊っている。よく見ると芝生に座っている人たちは本当にその踊っている人を凝視している。踊りとして、人に見せるような踊りじゃないけどなあ、何かを見ることにみんな飢えてるのかな?とか思っていたら、実はその周りの人も結構踊っている。人と人の間隔が空いているので、近くに行ってみないとわからなかったけれど、人々はお互いに離れながら、その音に合わせてみんな踊っていた。ちょっと見ている間に、その近くで一輪車に乗っていた人や、スケボーに乗っていた人もあっという間にその踊りに加わって、つまり、一輪車に乗りながらとかスケボーに乗りながらリズムをとって踊り始めた。人々の「飢え」みたいなものが、全く違った種類の人々を同じように揺さぶっていた。見ている人も、笑ったり、リズムをとったりしている。夕暮れの中で、欠乏感を癒してくれる瞬間を心から楽しんでいるように見える。私たちも、それを見ることで、欠乏感が溶けていくように感じた。

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