2020年4月3日金曜日

思考の整理 知らないということについて 2020年4月3日

街を観察したり自分の状態を観察したりは続けるとしても、それとは別に今まで思考していたことを少しずつ言葉にして行こうと思う。もちろん、何かの結論を得たということではまったくなく、ただ問い続けているだけで、今起きていることが自分の今まで思考してきたことを刺激して溢れてくるような感覚があるから、そんなときに言葉にしていくのが良いのかもしれない。でも言葉にしてしまうことは怖い。何か認識が甘くて間違ったことを書いてしまうかもしれないし、最近の日本ではそういうことを攻撃の標的にすることも多いように感じる。だけど、ここはひとまず自分の部屋の中だと思うことにする。まだ誰かに向かって語りかける前の言葉として、書いては消して、書いては消してという感じで呟き始めようと思う。といっても今までだってそうだったのだけど。ここ何年かは、ずいぶん自分の中だけに溜め込んでいたようにも思う。

「本当は知らない」ということがとても大切なんだと思う。例えば私は日本の古い芸能に触れる機会がほとんどないまま大人になった。近所の盆踊りはいわゆる近代盆踊りで歌謡曲っぽい盆踊りソングに合わせてみんなで踊った。もちろん懐かしい思い出ではあるけれど。大人になっても、テレビでお祭りやお囃子が映っていても、ほとんど心に引っかかったことがなかった。東京と神奈川の境あたりにある藤野というところに移住して、そこのお囃子を聞くまでは。そのお囃子を最初に聞いた時、ものすごい衝撃が走った。自分が「知ってる」つもりでいた内容であるにもかかわらず、ほとんど「知らなかった」としか言いようがない経験として自分に迫ってきたからだ。
 また、例えば私は子供の頃に東南アジアの国々にたいして間違った先入観を持っていた。「かわいそうな人たちの住む国」だとか「貧しくて不潔な国」だとか。それは今思えばとても恥ずかしい先入観だけれど、誰かがわたしにそのような情報を伝えたという記憶も全くないのに、どうしてそういう先入観を抱いていたのだろう?
 私の予想では、それはテレビと教科書ではないだろうか?テレビで伝えられていることの中に全ての現実があり、そこに映っていないことは「ない」ことになってしまっていたのではないだろうか?また、教科書は日本の全ての小学生、中学生がほぼ同じ内容を読み、学ぶことになる。だからそこに書かれていることが現実の全てであるように錯覚しがちである。しかし、自分が感じていることを元に自分の視点から物事を見ようとしてみると、全く違うものが見えてくる。そして、与えられた知識から勝手に構築してきた像が崩れていく。また、別の人が感じていることを元にしたその人の視点から物事をみることによって、自分の視点を相対化することもできる。視点は動かすことができる。動かすことによって初めて立体的な認識が可能になってくる。
 私は、日本の民俗芸能が、その地域が「日本」という国ではなく、その地域そのものの自治によって人々が生きていた時代から、そこで生きる人々が経験してきたことに反応し、自然に次世代にそれが伝わっていくような生き様があり、その中から慣習を引き継いで来た流れの一つとして今に至っているということに思い至った。「日本」というものの自分勝手な像が崩れて、本当はそういった「線引き」が成り立たないことを知った。そして、近代以降のシステムが現実の全てではないことを知った。それではじめて、日本を含めたアジアの国々の中で、様々な地域で、そのような人々が反応して生きてきた流れを受け継いできた何か(民俗芸能、地域的な信仰、慣習など)に魅了され、自分が失ったものの大きさに愕然とした。自分がそういったものと無縁なのはなぜなのか?という問いから「西洋近代化とはなんだったのか?」とという問いが生じた。

思ったよりなんか硬い文章になってしまった。もっと細かく、物事に分け入りながら手探りしたいのだけれど。やり直しはきく、と自分に言い聞かせながら、日々書いていこう。



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