2021年8月12日木曜日

自分が何を犠牲にしているのか? 2012年8月12日

 どこに焦点を当てるかで「自分の行動によって何を犠牲にしているか?」は全く違って見えてくる。

今現在、世界的な世論として、私たちの行動ひとつひとつの結果が、感染症を拡大し、その犠牲として重症化したり死亡したりする人がいる、というところに焦点が当たっている。しかし、実際には、非常に厳しい感染症対策をしていても、そこで感染する人が出たりすることは止められないようだ。また、全く対策をしていなくても、ほとんど被害が出ないこともある。または、ほとんどワクチンを摂取している施設でみなが感染することもある。実際に、因果関係は、メディアやSNSでシェアされる記事が言うほど単純ではなく、非常に複雑なのではないだろうか?

たとえばスマホに使われてるレアメタルは、非常に安い賃金で働かされる人や、資源を持ち出す現地の環境を破壊しているかもしれない。私たちが飲むコーヒーやチョコレイトによって戦争経済や奴隷労働に加担しているかもしれない。ただ、そこに焦点が当たってないので気にしていないだけだ。もう一つ、世界的な世論として二酸化炭素排出に焦点があたっているけれど、環境破壊はもっと見るべき側面があり、私たちが安く買う物の工場が立っている国や地域で恐ろしいまでの汚染された水が排水されているかもしれない。規制のゆるい国で恐ろしい薬の人体実験が行われているかもしれない。名目としては貧しい人々を救うためと謳いつつ実際にはたくさんの踏みつけにされる人々がいて、国際機関も、医療業界もそれに加担しているのだろう。そこに焦点が当たらないようになっているだけで。私たちは、いつも踏みつける側なので(あるいはかわいそうな人を救う側なので)、踏みつけにされる側になるなんて想像もできないだけかもしれない。それでいて、世論を賑わす「正義感」は視点を固定するための情報を与えられるだけで世界全体をデザインし始める。

私の父は、2018年に肺炎のワクチンを受けたが、風邪だと思っていたら容体が急変して意識が混濁し、肺炎となった。時間を経てその後回復した。だからといってワクチンが原因だとは言わない。けれども、ワクチンを打ったから防げると断定できないことは確かだ。原因と結果はそんなに単純じゃない。

ワクチンがなかった時も、新型コロナの感染症が広がる時もあり、また全然広がらない時もあった。ワクチン摂取が進んできた今、そうなる前よりむしろ感染は広がりつつある。でも視点が固定されると、まだワクチン摂取が進まないせいで広がっているかのように世論が誘導されていく。

私が人々の感じを見ていて思うのは、みんながこの状況を早く終わらせたいと思っているということだ。仕事がこれ以上奪われたくない。これ以上イベントを延期されたくない。不安に苛まれたくない。私も同じように思っている。しかし、それが感染症のための厳しい規制やロックダウンやワクチンによってもたらされるとは限らないと思う。恐怖から早く解放されたい、と思う時、視野がどんどん狭くなる。しかし、原因と結果はあくまで複雑なのであって、もしかしたら、健康な人が感染することでむしろ早くに解決する可能性もあるかもしれない。規制から解放され、恐怖から解放されたら物事はいい方向に進むかもしれない。

SNSで状況を把握しようとしていると、自分が何を言ったらいいのか、書いたらいいのかまったくわからなくなってくる。しかし、SNS内では全く救いがないように見える意見が違うであろう人々も、現実の世界ではお互い非常にうまくやっているように見える。現実の物理的な空間の中で人は、理屈抜きに見えない何かを交換していて、いろいろなレベルで、多様な物事に共感しあえるものなのかもしれない。それはとにかく救いだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿