2020年6月18日木曜日

引越し 苦日記〜歩くという行為の意味するところ〜 2020年6月18日(木)

引越し先がなかなか決まらず、見学に行っては希望を抱いたり、決まらない不安との間でフリーズしたりしている時、自分の視野がどんどん狭まっていくのを感じる。そして、誰かに楽しそうなことを提案されたり紹介されたりしても、どうしてもそっちに視点を移すことができなかったりする。何かを必要以上に待ってしまい、心に血が通わなくなったように麻痺してしまう。自分を観察したり、自分に何かを言い聞かせたりして改善しても、少しすると、またすぐ元に戻ってしまう。

胃の裏あたりの背骨が硬くゆがんでいる。時々心臓がドキドキする。
首と肩の付け根あたりに力が入っている。

なんでもないような曇り空の朝、草刈機の唸る音とスズメのさえずりが聞こえる。
昨日部屋を見学に行った時、私たち以上に切羽詰まった感じの人たち、おそらく海外からこの国に来ている人たちがたくさんいた。見学の人数は25人。お互い困っているのに、競合相手になってしまうなんて…。帰りに、私たちが乗った電車が故障し、長引きそうだったので他の電車に乗り換えて家に向かう。乗り換えようと思った別の駅が工事中でバスしかなかったので、もう一度別の駅に向かって別の乗り換え場所に向かおうと思ったのに、間違えて反対側の電車に乗ってしまい、2〜3駅してからやっと気づいて、ものすごく遠回りしながら帰ってきた。でも、イリイチが書いていたことを思い出した。人は自転車や車が発明されたことによって、歩くという行為の意味を見失ってしまった。人が移動するということは、ただ目的地に到着するための手段という訳ではないはずだったのに、もう、歩くという行為でさえも、目的の手段としてただ時間のかかるだけのものになってしまった、と。歩くという行為は、本当は歩くことそのものの中にある無限の奇跡と遭遇することなのかもしれない。私は、目的に目を奪われすぎて、その途中にある様々な無限の奇跡を見落とし続けているかもしれない。生きることも、死というゴールが目的ではなく、その途中にある様々な奇跡を味わうことなはずなのだ。

もう一度それを思い出す。また忘れてしまうかもしれないけど、ひとまず、今朝はそれを思い出す。

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