2013年2月18日月曜日

言葉を使うことについて

自分はなんでこうやって言葉にしようとやっきになるのだろう?
感じている事を言葉にしてしまうことの野暮さというのもあるはずだ。

詩や歌や、歌うという行為、それだけじゃない反応の仕方のいろんな可能性があってそっちの方が豊かもしれないのに。

ひとつ言えるのは、「正しさの基準」が押し付けられそうになった時に、自分ではそう思わなくてもそれが正しいかのように、そしてそれが正しいという視点から自分を見た時の自分に対してのどうしようもない否定感に苛まれるそういったことをさけるため、そうやって傷を負った自分の状態から、本来感じる事を感じるままに感じて構わない世界に自分を引き戻すため。ただ、逆にそうやって自分が言葉にしたことが他の誰かにとって同じように正しさを押し付ける暴力的行為になるおそれも大いにある訳だ。

そうじゃない方法をそろそろちゃんと模索してもいいはず。
そして、それは「見立てる」感覚、線引きを解く感覚、意味が意味をなさなくなるような禅問答のような何か、そういう意識の力によって得る事ができるはずで、やってる人はすでにやっていて、慎ましく当たり前に生きているのだ。

そう考えると自分の愚かさと傲慢さがはっきりと浮き彫りになってくる。

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