2022年3月5日土曜日

ショック・ドクトリン ナオミクライン 抜粋 その1

ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の招待を暴く ナオミ・クライン 岩波書店

〜〜〜抜粋に入る前に、ちょっとだけ前振りとして内容を自分で整理した導入〜〜〜

自由放任資本主義推進運動の教祖的存在で、過剰な流動性を持つ今日のグローバル経済の教科書を書いた功績で知られる経済学社ミルトン・フリードマンが編み出した方法、つまり壊滅的な出来事が発生した直後、災害処理をまたとない市場チャンスと捉え、公共領域にいっせいに群がる行為を、著者は「惨事便乗型資本主義(さんじびんじょうがたしほんしゅぎ) 」すなわち、ショックドクトリンと名付けた。そして、その信奉者には、ここ数代のアメリカ大統領からイギリス首相、ロシアの新興財閥(オリガルヒ)、ポーランドの財務大臣、第三世界の独裁者たち、中国共産党書記長、国際通貨基金(IMF)理事、米連邦準備制度理事会(FRB)の過去3人の議長までが連綿と連なっている。

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以下抜粋

P6

フリードマンはきわめて大きな影響力を及ぼした論文のひとつで、今日の資本主義の主流となったいかがわしい手法について、明確に述べている。私はそれを「ショックドクトリン」、すなわち衝撃的出来事を巧妙に利用する政策だと理解するに至った。彼の見解はこうである。「現実の、あるいはそう受け止められた危機のみが、真の変革をもたらす。危機が発生したときに取られる対策は、手近にどんなアイデアがあるかによって決まる。われわれの基本的な役割はここにある。すなわち現存の政策に変わる政策を提案して、政治的に不可能だったことが政治的に不可欠になるまで、それを維持し、生かしておくことである」。大災害に備えてカンズメや食料水を準備しておく人はいるが、フリードマン一派は大災害に備えて自由市場構想を用意して待っているというわけだ。このシカゴ大学教授の確信するところによれば、いったん危機が発生したら迅速な行動をとることが何よりも肝心で、事後処理にもたついたあげくに「現状維持の悪政」へと戻ってしまう前に、強引に襲撃をかけて改革を強行することが重要だという。「新たな陣営が大改変を成し遂げるには半年から9ヶ月かかると予測される。その間にもし断固とした行動を取るチャンスは二度とやってこないであろう」。負傷を追わせるなら”一気呵成に”襲い掛かれというマキャヴェリ思想のバリエーションであるこの考え方は、フリードマンの提唱した戦略のなかでももっとも長く構成に影響を及ぼす遺産となった。

 大規模なショックあるいは危機をいかに利用すべきか。フリードマンが最初にそれを学んだのは、彼がチリの独裁者であるアウグスト・ピノチェト陸軍総司令官の経済顧問を勤めた1970年代半ばのことだった。ピノチェトによる暴力的なクーデターの直後、チリ国民はショック状態に投げ込まれ、国内も超インフレーションに見舞われて大混乱をきたした。フリードマンはピノチェトに対し、現在、自由貿易、民営化、福祉・医療・教育などの社会支出の削減規制緩和、といった経済政策の転換を矢継ぎ早に強行するようアドバイスした。その結果、チリ国民は公立学校が政府の補助金を得た民間業者の手に渡っていくのを呆然と身も守るしかなかった。チリの経済改革は資本主義の大改革のなかでもいまだかつねないほど激烈なものだった。この手法が「シカゴ学派」の改革と呼ばれるようになるのも、ピノチェト政権下のエコノミストの多くが過去にシカゴ大学のフリードマンのもとで学んでいたからである。フリードマンは、意表をついた経済転換をスピーディーかつ広範囲に敢行すれば、人々にも「変化への適応」という心理的反応が生じるだろうと予測した。苦痛に満ちたこの戦術を、フリードマンは経済的「ショック治療」と名付けた。以後数十年にわたり、自由市場政策の徹底化を測る世界各国の政府はどこも、一気呵成に推し進めるこのショック治療、または「ショック療法」を採用してきたのである。

 経済的ショック療法に加え、ピノチェトは彼独自のショック療法も採用した。ピノチェト政権が数多く儲けた拷問室の中で、資本主義的変革に楯つく恐れがあるとして捉えられた人々の体に、すさまじい暴力が加えられるという形のショック療法である。多くのラテンアメリカ人は、何千万者国民を貧困に追いやる経済的ショック療法と、ピノチェト路線とは違う社会を願ったことへの罰として与えられた数十万の人々への拷問の横行が、表裏一体の関係にあると見た。ウルグアイの作家エドゥアルド・ガレアーノはこう問うている。「電気ショックの拷問なくして、どうしてこんな不平等社会が存続できようか?」

 軍事クーデター、経済改革、暴力的弾圧という三つのショックがチリに襲いかかってからちょうど30年後、ふたたび同じ手法が、より大規模な暴力を伴ってイラクの地に登場してくる。まず初めに戦争がしかけらえた。『衝撃と恐怖』に書かれた軍事戦略によれば、それは「敵の意志、認識、理解力をコントロールし、その軍事行動あるいは反撃を封じるため」だという。それに引き続き、アメリカによって送り込まれたポール・ブレまー連合国暫定当局(CPA)代表によって、まだ戦火の止まぬうちから徹底的な経済的ショック療法が導入された。それが大規模な民営化、完全な自由貿易、15%の一律課税、政府の大幅縮小、といった政策だった。当時、イラクで暫定通産大臣の役にあったアリ・アブドゥル=アミール・アラウィは、「われわれイラク人は実験台にされるのにいいかげんウンザリしている。これほどの衝撃が全土を襲ったうえに、今更経済ショック療法など必要ないではないか」と苦言を呈した。これに抵抗したイラク人たちはたちまち検挙されて収容所へと送り込まれ、さらなるショック療法をあたえられた。もはや比喩どころの話ではない、本物の「ショック療法」が心身に施されたのである。

 大惨事のショック時に自由市場がいかに便乗するか、私が調査を開始したのは2003年5月にイラクが占領統治されてから間もない頃だった。2005年、バグダッドに赴いた私は、アメリカ政府が「衝撃と恐怖」作戦に引き続いて行ったショック療法の失敗に関する記事を書き上げてから、その足ですぐにスリランカへと向かった。2004年末に大津波がスリランカを襲ってからすでに数ヶ月経っていたが、私はここでも同じような手口を目撃するようになる。災害後、外国投資家と国際金融機関はただちに結託してこのパニック状況を利用し、村を再建しようとした数十万人の漁民を海岸沿いから締め出したうえで、この美しいビーチ一体に目をつけていた起業家たちの手に引き渡したのだ。彼らは瞬く間に大規模リゾート施設を海岸沿いに建設していった。スリランカ政府は「悲惨な運命のいたずらとはいえ、今回の天才はスリランカにまたとないチャンスをプレゼントしてくれた。この大惨事を乗り越え、我が国は世界でも一流の観光地となるだろう」と発表した。要するに、ニューオーリンズで共和党政治家とシンクタンクと不動産開発業者が三者一体となり、「白紙の状態」を口にして浮き足立つずっと以前から、これが企業の目標を推進するうえで好ましい手法だという理解はすでに確立していたのだ。つまり、人々が茫然自失としている間に急進的な社会的・経済的変革を進めるという手口である。

中略

彼の解く原理主義的資本主義は、常に大惨事を必要としてきた。



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