2022年3月4日金曜日

アメリカの巨大軍需産業 広瀬隆 一部抜粋

 アメリカの巨大軍需産業 広瀬隆 集英社新書

p198  インドネシアへの兵器輸出とティモール・ギャップの石油利権

20世紀の戦争を動かしたのが石油であれば、その問題を21世紀に持ち越したのがインドネシアからのティモールの独立紛争であった。97年以来のアジアの金融崩壊が続いた後、98年5月にスハルト独裁体制が崩壊し、政権交代という劇的な変化をもたらしたが、ディモール独立の背後には仕組まれた罠があった。動乱1年後の99年5月から、インドネシアでは自由選挙がおこなわれ、9月1日に主要政党の顔ぶれが決定した。

 主要5政党のうち、東ティモールの独立を認めなかったのは、第1党の紛争民主党だけであった「人権外交」の国際社会から強く批判されたのが、彼女と支持者が望んだのは、東ティモールの独裁的支配ではなかった。過去に東ティモールの独裁的支配をおこなってきたのは、逆に欧米の石油メジャーの傀儡政権だった与党ゴルカルと国軍のスハルト体制である。それを知るメガワティは、東ティモールをインドネシアから切り離して、欧米の利権者が「新たに独立した小国・東ティモール」に群がる未来を望まなかった。

メガワティの父は、インドネシア独立の父スカルノ大統領であった。背後に欧米の情報工作機関が動くなか、スカルノは失脚し、スハルト体制に移行した。99年総選挙は欧米支配体制を再度ひっくり返し44年前の気運を再来させる出来事であった。しかし、欧米が黙ってこれを見過ごすはずがなかった。インドネシアは石油と天然ガスの宝庫だからである。オーストラリアとティモール島のあいだにあるティモール・ギャップ海域には、石油と天然ガスが埋蔵量数十億バレルあると推定され、オーストラリアのBHP(ブロークン・ヒル・プロプライエタリー)、モービル、ロイヤル・ダッチ・シェルのメジャーが70年代から探査をおこなってきた。

 75年7月、ポルトガル本国で政変が怒ると、これに乗じて、ポルトガル領の東ティモールで独立運動が高まり、8月11日にクーデターが発生して、欧米の石油利権が消失する寸前まで事態が進んだ。そこで現地は、欧米の石油企業による代理戦争に様相を一変し、内戦に突入していった。12月7日にはインドネシア軍が介入し、首都ディリを占領して臨時政府を樹立すると、インドネシアによって東ティモールが併合されたのである。

 しかしこのインドネシア軍の東ティモール真縫う二日前に、首都ジャカルタでスハルトと会っていたのは、アメリカのフォード大統領とキッシンジャー国務長官であった。彼ら二人は、スハルトに対して東ティモール侵入にゴーサインを出し、同時にアメリカからインドネシアへの兵器輸出の約束をとりつけた。しかもその購入資金は、IMFやアメリカ輸出入銀行など欧米の金融機関やペンタゴンからの援助によって、アメリカに還流するよう仕組まれ、インドネシア財閥のサリム・グループやリッポ・グループらがアメリカ軍需産業の代理人となっていた。

 バハルディン・ハビビが当時その主役をつとめた。のちにスハルト失脚後、大統領に就任した人物である。彼は西ドイツ時代のメッサーシュミットで育てられ、副社長に出世して、同社が提携したボーイングとも関係を持っていた。そのためインドネシアに帰国すると、76年から大臣として大幅な軍備拡張を推進し、反乱軍鎮圧用の航空機ロックウェル・インターナショナルOV10、ロッキーオドの大型輸送機C130、GMの軍用車などを続々とアメリカから輸入した。それに乗じてアメリカ軍需産業は、ライフルなどの消化器やヘリコプター、大砲に至るまであらゆる種類の武器を送り込み、やがてハビビはインドネシアに国産飛行機工場を建設するまでに勢力を拡大した。さらにカーター政権になると、副大統領モンデールが攻撃機スカイホークA4を提供する交渉に当たり、フォード時代の4倍以上という膨大な兵器貿易を行うようになった。特に東ティモールで住民殺戮に効果的だったのは、ベル車の軍用ヘリコプターであった。

 カーターがインドネシアに深いリシア動機は、いらんと同様、ベルの親会社テクストロン社長から財務長官に転じたミラーの差し金にあった。アメリカの企業最高幹部は、退任後に事業に口を出さないが、その会社の株券と債権を大量に保有し、株価が私生活の財産を保証する関係にある。レーガン政権になっても、インドネシアに対する兵器輸出はほぼ同じ規模で続いたが、86年になって突然それまでの5000万ドル規模とは桁違いの3億ドルを超える兵器がインドネシアに流入した。フィリピンの独裁者マルコスが失脚したアジア動乱の機器を米良って、ゼネラル・ダイナミックスの戦闘機F16が初めて12機売却されたからである。以後、ブッシュ政権で少し落ち着いたが、クリントン大統領が再び大幅な武器輸出に踏み切ろうとした矢先、インドネシアに政変が怒ってホワイトハウスは沈黙を保たざるをえなうなった。

 この経過が物語る通り、欧米が意図したのは、スハルト体制にほるインドネシア軍の利用であった。その負担は、インドネシアにとって重かった。18世紀にはじまったコーヒーさいばいで、ひとり当たりの生産額が年間400ドルにしかならない東ティモールに大金を次子m刺されたのは、独裁者スハルトであった。

 ところがこれら欧米の利権車は98年5月以来、手の平を返したように、東ティモールの独立を支援する側に転校した。飼い慣らしてきたスハルト体制が崩壊し、インドネシア国民が一人歩きしはじめたからである。99年8が雨t30日には、国連管理下で東ティモールの住民投票が実施され、欧米の宣伝工作が功をそうして投票率98・6%のなか、独立先生はが圧倒的な勝利を収めた。突然寝返った欧米に不満を抱くインドネシア国軍は、ブリティッシュ・エアロスペース製の攻撃機ホークを使って、東ティモール独立賛成派を威嚇した。このホークはイギリスのメジャー政権が96年にインドネシア向けに16機売却を許可し、99年4月に、ブレア政権が2機納入したものであった。

 さらにインドネシア系住民による東ティモール独立はへの弾圧が横行し始めるのを待って、人権外交を看板に掲げる欧米は、99年9月に国連の主導という形で東ティもオールへの国際舞台の投入に踏み切った。そのしれ意見を握ったのは、アメリカから膨大な額に上兵器を輸入してきた隣国オーストラリアであった。ところが99年9月14日〜17日にかけて、イギリスで過去最大規模の国際兵器見本市が開催され、50カ国600社以上の軍需産業が出展するなか、この兵器ショーに、東ティもオール問題で国際的に批判されていたインドネシア政府が招待され、イギリスの二枚舌が大きな問題となった。

 欧米のメディアに踊らされた市民運動家と国際世論は、背後の事情も知らずに、独立を求める東ティモール住民の味方についたが、東ティモーオルの住民感情を巧みにコントローオルしてきたの誰だったのか。

 オーストラリアはその10年前の98年12月にインドネシアと石油・天然ガスん共同開発プロジェクトに正式調印していた。その調印こそ、当時インドネシアが肝炎に制圧していた東ティモールと、オーストラリア北部のあいだに位置するティオール会でのプロジェクトに関するものであった。その海域には、推定10億バレルの原油が埋蔵されていると見られたが、共同開発計画は難航し、10年の歳月をかけた交渉の末に実ったものであった。しかも正式調印がなされても、まだインドネシアとオーストラリアの領域の線引きは確定しなかった。その後、原油と天然ガスの推定埋蔵量は数十億バレルにふくらみ、オーストラリアは一応の了解の線引きをおこなったが、何としてもインドネシアから東ティモールを独立させようと、時期を狙ってきた。独立させることによって、小国を相手に、原油の利権を自由に獲得できるようになるからである。 

 東ティモール住民を弾圧するインドネシア国軍を非難するのは容易である。オイル・メジャーの罠にはまったのは、国際世論であった。


注)2001年ごろに書かれたもので、著者の視点による調査と見解なので、ひとつの側面として見ています。


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