間にあるものとしてそこに置く
という、盆踊りがその場で作られるような作品は、コミュニティーのためのよう一見みえるかもしれない。しかし、娑婆、真っ当に普通に行きている世間の人々に向き合うということが私はとても苦手で、いつも後ろめたく、罪悪感や、背徳感を感じてしまう。なんだろう。要するに自分はマイノリティーで、どうしても世間一般という(そういう人は本当はいないのかもしれないけれど)状況の中で浮いてしまう。私からするとマジョリティーの人々は「世間一般」という壁のように感じる。そこを細かく見て行くと、その向こう側にあるシステム、俯瞰した評価基準の下で線引きされたシステムがあるということかもしれないけれど。
ただ、そういうマイノリティーの私が、コミュニティーのためのような作品を作るというのはいったいどういうことなのだろう?それは、自分がその中に居場所を見つけようという行為なのかもしれない。マイノリティーである自分が、あるコミュニティーの中に役割を持つことができれば、自分はこの世界で生きることができる。また実際その役割が、コミュニティーにある活力をあたえることができれば、自治的なコミュニティーが活性化される。自治的なコミュニティが活性化されれば、システムに迎合する方向の力は弱くなる。そうすると、そういう人々の間で生きる自分が少しだけ楽になる、そういうことかもしれない。
2013年11月21日木曜日
2013年10月23日水曜日
間にあるものとしてそこに置く
という名前のパフォーマンスを行った。
dividualということから派生して、人と人の間にある何かが人を包むようなことについて考えている。それで、人と人の間にあるものが動き出す、ということが実はノリということなのかもしれない。またそういった動き出したものが結局は政治であったりしたのかもしれない。それは、individualな人々が意識的に一緒に行動したり仲良くするということとはとても違う気がする。もし違った感覚の人同士がいたら、その人と人の間にある何かというのは必ずあって、そこにはいろいろな可能性が含まれる。人と人の差があればあるほど、可能性は広がって行くと考えることもできる。間にあるものが動き出すには何が必要なのか?
dividualということから派生して、人と人の間にある何かが人を包むようなことについて考えている。それで、人と人の間にあるものが動き出す、ということが実はノリということなのかもしれない。またそういった動き出したものが結局は政治であったりしたのかもしれない。それは、individualな人々が意識的に一緒に行動したり仲良くするということとはとても違う気がする。もし違った感覚の人同士がいたら、その人と人の間にある何かというのは必ずあって、そこにはいろいろな可能性が含まれる。人と人の差があればあるほど、可能性は広がって行くと考えることもできる。間にあるものが動き出すには何が必要なのか?
2013年10月1日火曜日
偽の目的意識 3
さて、もうひとつ違う話。ちまたで大流行りする何か、例えば洋楽とか、日本のポップミュージックとか、全世界的なアイドルとか。そういう人たち自身が一つ一つ自分の歌を歌っているような気分でいるときに、常に、そこには別の次元の人々による、別の思惑のような何かがある。そういうときに、人々は、偽の目的意識に飛びついているのだと思う。そして、それ以外の思惑のことは思いもよらないのだ。大流行りする商品のコマーシャルもそうだろう。そのコマーシャルが告げている効能に飛びつく。でもそこには別の思惑があって、まんまと引っかかっていく。偽の目的意識「一人一人の健康のために」とか、「美しく自立した女性像」とか。
つづく
2013年9月27日金曜日
偽の目的意識 2
それとはまた違った話。自分にとって切実に何かを見いだしたい、あるいは伝えたい、押し出したい、という思いがあって、それを生々しい形で作品にしてしまうということが自分にはよくある。自分の中の何かがそれを押し出してしまう熱を持っているのに抗えないような感覚である。そのときに、もう少し利口になろうよと。人にとって表面的に受け取りやすい偽の目的意識をひとつ作ることで、また違った可能性を手にすることができるかもしれない。たとえばある種のハリウッド映画や、宮崎駿作品のように。
つづく
2013年9月26日木曜日
偽の目的意識
何をするにも、目的意識を持って何かをやることによって、目的を遂行するという、ひとつの当たり前のような事柄がある。けれども、目的を遂行したときに、その目的を遂行する目的は一体なんなのか?あるいは、「目的を遂行すること」が目的になってしまうのではないか?という問いがここにある。
なにがしかの作品を作るときに、「●●を伝えるため」とか「●●を見てもらう」とかそういう目的を持ちがちだけれど、それがどうしたの?という罠にはまってしまうことはよくあることだ。
「目的意識」というのは、ひとつの壁のようなもので、それを打ち砕くような行為が実際に何かを見いだすきっかけになることが多いように思う。ただ、目的意識を取り払うというのはたかなか難しいときに、「偽の目的意識」を打ち立てるという方法がある。「偽の目的意識」は、自分にとってできるだけどうでも良いことを目的に持ってみることだ。あるいは、人にとって表面的に受け取りやすい目的と言ってもいい。
つづく
なにがしかの作品を作るときに、「●●を伝えるため」とか「●●を見てもらう」とかそういう目的を持ちがちだけれど、それがどうしたの?という罠にはまってしまうことはよくあることだ。
「目的意識」というのは、ひとつの壁のようなもので、それを打ち砕くような行為が実際に何かを見いだすきっかけになることが多いように思う。ただ、目的意識を取り払うというのはたかなか難しいときに、「偽の目的意識」を打ち立てるという方法がある。「偽の目的意識」は、自分にとってできるだけどうでも良いことを目的に持ってみることだ。あるいは、人にとって表面的に受け取りやすい目的と言ってもいい。
つづく
2013年9月8日日曜日
労働が醸すノリ
労働者階級と支配者階級というような区分があるというふうに、とらえたことがなかった。それぞれに、グラデーションのように収入の差異があるだけのような印象をどこかで持っていたように思う。けれど、財産を保有することによってそれを守ろうとする動きをする人々というのは、思った以上にその財産や権利をたくさん持っていて、そういったものを持ったことが無い圧倒的多数の人々は、労働によって圧倒的な時間を過ごすわけだ。また、電気、水道、ガスとそれに伴う便利な道具、洗濯機、ガスレンジ、冷蔵庫、冷暖房、それぞれによって、過酷な環境で過酷な労働をしなくてすむことと引き換えに、けっこうなお金を支払い続けなければならないから、その分他のことで労働をするということになる。それを引き換えないで、自力でできることを少しずつ増やすことで、自治的なコミュニティーのあり方に少しずつ引き戻すことができないだろうか?過酷な労働に耐えるためには、その労働している人を生かすために労働歌がいる。労働歌から派生する踊りがいる。それらは、自分たちのことを自分たちでやっている自負と、それが醸すノリによって立ち上がるだろう。
2013年8月30日金曜日
ノリが紡ぐ文化
地域のコミュニティーにとって、あるいはある種のグループにおいて、その中から発生した、あるいはどこかから流れて来たものの影響にしても内発的な要素が強い文化が必要不可欠だと思う。そのコミュニティーが、その人員である必然性のような何か、例えば家族のように代替えが効かない正員でなりたっているという切実さのような何かが不可欠だし、それはそこにある「ノリ」があって、それが文化を紡ぎだす。「ノリ」は人間の体を媒介にする以外に伝搬のしようがない。「ノリ」というのは何かに反応する態度のようなもでもあり、また媒介する「波」それ自身でもある。
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