今日は珍しく、起きてすぐにお散歩に行った。湖の湖畔でハガキを書く。その間、鳥の様々な声が響く。特におかしいのは、カモメが文句を言うような奇妙な声で鳴いていること。なぜ、こんな内陸にカモメがいるのだろう?私のイメージではカモメはいつも港にいるものだと思っていた。鴨の親子が虫を探して土の中に嘴を突っ込む。草をしごいているのか、食べているのか、枯葉の下から青く細長い草を一本ずつ嘴でパクパクやっている。その音が、パクパクパクパクパクパクと、響いている。だんだん鳥の姿が増えて、黒い鳥や嘴の上に班のある鳥やら、たくさんの種類の鳥が集まってきてみんな同じ行動をしている。パクパクパクパクパクパク…。鳥たちはロックダウンも国境も関係なく、普段どうりに餌を求めたり飛び回ったりしている。なぜなら、彼らには概念を理解しないから。それに思い至った時、すごく自由を感じる。最近読んでいる『パパラギ』の語り手が、「私は時間というものがどうしても理解できない。すなわち年齢というものも理解できない。数えることに意味があるとはどうしても思えない」という箇所が出てくる。それも「時間」という概念を理解しないことで得られる自由みたいなもかもしれない。その二つが自分の中で深くリンクする。私たちを縛っているもののひとつは「概念」なんだと。それを消し去ることはできなくても本当はないものだと理解できればずいぶん楽になれる気がする。その考え方は仏教の哲学に近いのだろうか?
ベルリンの街行く人々を見ていると、外にいても見えない枠組みのなかに捕らえられているような閉塞感を感じる。それぞれ孤立して、うつむいて目的以外のことをしない。地下鉄の中ではみなうつむいてスマホをやる人の割合がずっと増えている。アレキサンダープラッツ広場はガラーンとしていて鳥の声だけが生き生きと響いてまるで森の中みたい。でも警察がうろうろしていて得体の知れない緊張感を感じる。人々が見えないグリッドに沿って思考し、行動をするようにデザインされている、振り付けられているように見える。見えないグリッドに捕まらないようにするために何が必要なのだろう?そう息子に聞いてみると「大切なことは、ゆらゆら揺れ続けることだよ」と言う。「ゆらゆらしながら、次にどんなことが起きてもいろいろな可能性に対応できる。」と。その速度が大切なのだそうだ。ゆっくりゆらゆらしたほうがいいそうだ。そうかもしれない。それにプラス美輪明宏考案の、喋っている時、その語尾にルンルンをつける語法を合わせたらより良いかもしれない。なぜなら、デザインされた思考や行動から少しでもずれることが、自分を少しだけ自由にする方法だと感じるから。少しずれるだけのことにはいくらでも方法がある。ルンルン。
0 件のコメント:
コメントを投稿