今日も湖畔で鳥たちを観察する。鳥たちは、好きなように、好きなところに飛んでいったり泳いだり餌をとったりしている。もちろん「好きなように」とか「自由に」とか言うのは私が勝手に言葉にしているだけのことだけど。本能の赴くままに、と言ったほうが当たっているだろうか?それは自然の中にある見えない法則みたいなものに沿っているとも言える。その法則には中心がなく、小さく複雑な因果関係の積み重ねの現れだったりする。それはなんとすごい仕組みだろう。私たちも本当はその法則の一部分にすぎない。それを思うととても暖かく幸せな気持ちになる。それらは、目的意識やコントロールとは無縁だ。人間の価値観では「自然淘汰」とか「生存競争」とかいう言葉を使うけれど、実際には競争とか淘汰などの意識なんか全くなく、小さく複雑な相対的因果関係の積み重ねでしかない。その中にはもちろんウイルスもいる。2018年に書かれた「ウイルスの意味論」という本の中で、「レトロウイルス」についての説明が出ていて、それが非常に面白い。外来性のレトロウイルスが感染のプロセスの中でヒトの遺伝子の中に組み込まれることで水平に遺伝子変化が起き、それがそのまま親から子へと縦方向にも遺伝していくらしい。今分かっているだけでも、ヒトの遺伝子のうちレトロウイルス由来のものは少なくとも9%はあるらしい。ウイルスは生物か、無生物か、議論が分かれている。でも、ウイルスは増殖し移動するという性質があり、生物の遺伝子にも方法は違えど増殖するという性質がある。ウイルスと遺伝子の相互関係には、人間の積み重ねてきた知識と思考法では追いつかないような、何か哲学的とも思われるような何かがあるようにさえ感じる。しかし、それは、パパラギを書いた酋長たち、サモアの人々が自然のなかで「大いなる心」と呼んでいた何かに通じるのかもしれない。文明の利器を使って研究し、深めていく知識というものがあり、一方でそういった知識や情報とは無縁の観察、洞察、知恵というものがある。
一方、もし「知識」を一度とっぱらって、自然発生的な想像に身を任せてみることができたら?人間が作ったあらゆる線引きと無縁に鳥たちが飛び回る姿を見て、もしかしたら違う次元の向こう側まで飛んでいくことができるのではないか?と想像することもできる。そうすると、その鳥の姿に自分の心を重ねて死者の国へ旅立った者と交流できるかもしれない、と考えてみることもできる。鳥を神の国の使いとしたり、亡くなった魂が鳥になったり、そういった昔話や民話は世界中に存在するようだ。心は、鳥のように無限に飛び回ることができる、と信じてみる。そうすると、世界の有り様はずいぶん違ったように感じられる。
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