時代が変わっても、何度でも何度でも似たようなことが繰り返される。
偏見というのは誰でも持っていると思う。基本的に、人は様々な偏見に満ちている。時々、別の側面から物事を見ることができた瞬間にそれが解除されたり、他に人の感じ方を参考にして、別の可能性について考えることができるようになる。それらを繰り返すことで、なんとなく、同じ偏見にしがみつかずに済んだりもする。けれども、またすぐ、何かしらの偏見というのは生まれ続ける。だから、人と一緒に話すことがとても大事なのかもしれないとも思う。それも、インターネットを介してではなく直接人と話す。なぜかというと、話している相手の視点を通して物事を見る瞬間というのは、すごく身体的な経験だから。インターネットを通すとそれがかなり阻害されるという印象がある。
同じ方向の人の感じ方を何度も何度も見ているうちに、それが世論であると感じるようになる。フェイスブックはそういう効果が絶大だ。このコロナが始まった頃、すごく些細のことを「デマ」として糾弾する、デマ警察てきな人がとても増え、そういうことを友人や知り合いにさえされるようになる。もちろん、ひどいデマもあって用心する気持ちになるのだろうが、「熱いお茶をしょっちゅう飲むのが良い」というようなたわいもない内容でさえデマのレッテルが貼られていく。科学的根拠がない、ということで。しかし、日常的にさまざまな科学的に根拠のない民間療法を実践している人はたくさんいるし、それに効果を感じている人に向かって科学的根拠がないと糾弾する必要があるとは思えない。ウイルスのことでさえ、まだわからないことがたくさんあり、科学的に根拠がはっきり示される頃にはなにもかも終わってしまているだろう。あるいは、科学的根拠がはっきりと分かるころにはもう手遅れということも世の中にはたくさんある。
何かしら違和感がある、何か変だ、という科学的根拠のない自分の感を大切にすることができなければ、いざというとき自分で何も判断することができない。また、それを人と話し合うことで、視点を変えて物事をみることもとても大切だ。いろいろなことがわかった時にはもう手遅れということは考えられる。しかし、現在はそれをしにくい状況が形成されている。監視されているインターネットを使用しなければ人と簡単には話せない。
私は、去年コロナが始まった頃から、特にフェイスブックに多大な違和感を持つようになった。多く繰り返されるタイプの記事、あまり出てこないタイプの記事、あるいは民間の人を装った記事が混ざっていたとしてもだれもわからない。しかも、何かが起きた時に、誰かのアカウントを停止したりできる。あきらかに世論はこれらのメディアによってデザインされている。ずっと言われてきたことだが、これほど深く違和感を覚えたのは初めてだ。そして、世論のデザインには何かしらの意図がある。何かの組織がメディアとつながれば金銭的な契約が結ばれて世論のデザインを依頼されることも考えられる。
メディアへのリテラシーは何度も叫ばれたが、今回また完全に忘れられた。恐怖がリテラシーを反故にできることを胸に刻む必要がある。恐怖は死角を拡大させる。恐怖さえもデザインされる可能性があることに意識を向けるべきだ。
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