誰でも偏見を持っている。偏った物の見方、考え方は、一人一人が当然持っているもので、全く偏っていない状態なんてないし、そんな人は世の中に一人もいない。問題なのは偏見ではなく、それを線で囲って固定化してしまうことだ。その固定化は何がしかの設定された基準から物事を判断するというものの見方の中で育まれる。学校や会社やテレビからの情報や、そういう何気ない日々の中で繰り返しインプットされた基準を浴びて私たちは育てられてきた。その基準はだれが設定したのだろうか?漠然と人々の間から生じたように見えて、実は何かしらの意図があってデザインされることがほとんどなのではないだろうか?また、「自分は正しい側にいる」という安心感を得たいという人の心理につけ込んでデザインされた「社会正義」が拡散される。あるいは「本当のことを知りたい、追求したい」という心理に付け込んで、いろいろに歪めた情報を真実に紛れ込ませて撹乱し、新たな偏見を量産させる。そういう事に捕まってしまうと、いとも簡単に人は分断されてしまう。
何が正しいかなんて本当のところわからない。ただ、自分が感じていることを止めることはできないというだけだ。そして、人の感じ方をむりやり変える事は誰にもできない。どんなに批判したり、吊し上げたり、蔑んだりしても、感じていることをより強く保持させる結果に陥るだけだ。そしてますます分断が深まっていく。あるいは、表面的に態度を変えさせる事はできても、心の中の感じているところまで変更させることはできない。それをむりやりすることはただの「洗脳」だ。
自分の感じ方や人の感じ方に互いに耳を澄ませれば、自然となんらかの相対化が生じ、複数の視点を獲得できるかもしれない。それが本当の知恵と言えるのではないだろうか?
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