感じることを、感じるままに、でも言葉にするのは時には難しい。特に誰かに読まれるかもしれないところに書くのは。ずっと気になっていたけどうまく言葉にしてこなかった違和感に、ついに向き合ってみよう。それは、歴史的になんども繰り返されてきたことの、また同じ繰り返しとして私には感じられることの一つ、「レッテル貼り」である。ある人々を線引きの中に閉じ込めて、そのカテゴリーを通してのみ判断するというものだ。戦前、戦中には決まってある同じ方向に人々の感じ方や考え方を強要するものだが、その感じ方、考え方に意義をとなえる人々を囲い込んで、追い込んで、隅に追いやり、恥をかかせ、貶める。記憶に新しいのは「左翼野郎」であるとか「マルクス主義者」であるとかそういうフレーズだ。そのようなレッテルを貼られることは、社会的に葬られる可能性があることを意味したのであろう。だから、少数派をどんどん少数にする効果があり、また何かに疑問を持ってもそれを考えないようにする、つまり、レッテルを貼られるおそれのある感じ方や考え方には近づかないようにするという心理的ブレーキが働く。そのことによってその時期にはかなり多くの人々が同じ方向にのみ感じ方、考え方が誘導されていったのであろう。これはすごく効果的な方法であるということを今、実感している。現在、多用されるレッテルは「陰謀論者」そして「極右」「スピ系」などであろうか。反戦を唱えていた人々が主に左翼と言われた人々であったように、これらのレッテルを貼られるタイプの人々が主に新型コロナの経緯や恐怖を伝える報道およびSNS記事が溢れかえる現状に疑問を持ったり、ワクチンの危険を唱えたりする傾向にあるのは私も感じている。また、全く「陰謀論者」でも「極右」でも「スピ系」でもない人々が、そういう疑問を持ったり調べたりそれについてシェアしたりした場合でも、その類の「レッテル」を貼られるのではないか?という恐怖と隣り合わせになる。あるいは、自分がシェアしたものがそれらのレッテルの貼られる可能性のある人がしていたりした場合は、内容ではなく、その傾向だけが精査されてしまい、その時点で嘲笑、蔑み、貶めという憂き目にあう可能性が高くなる。だからこそ、そういった記事は人々の目に触れた途端にそのレッテルが作動し、アレルギー反応のように大きな反応が起き、中身を精査されることなくガラクタのようにゴミ箱に捨てられてしまう。とてつもなく大きな思考のブレーキが働くことになる。しかし、そのようなレッテルを貼られた人々の一人一人が、その時どんなことを感じ、どんな個人的な必要性にかられて行動したか、言葉を発したか、いったい誰にわかるだろう?そういった人たちは、「どうせ」偏った考え方しかできない、とか「どうせ」フェイクに決まっている、とか「どうせ」デマばっかり広めようとしている、と反射的に考えてしまうことは、やっぱり偏見ではないのだろうか?ある思考傾向にあること、そのことは当然その人にも何がしかの偏見があるかもしれない。その偏見が差別的な発言につながることもあるかもしれない。でももしそうなら、それが明らかになっている時にそれに対して誠実に意見を交わすことで全く違った可能性も出てくるのではないだろうか?投稿や発言の中に「極右」的あるいは「スピ系」な傾向すなわち、排他的な言動や、論理を完全に欠いた言動がない内容に関してさえも、最初からアレルギー反応を起こして自らの偏見を顧みない態度は、何も産まないし、そのブレーキを利用して感じ方や考え方を同じ方向にのみ引っ張ろうとする人たちの思う壺にはまるだけのようにわたしには思える。
私は人生をもう50年生きた。残りの人生は、自分の魂が最後に納得できるくらいに自分の人生を生き切りたい。私の芸術活動は、ダンス活動は、自分が本当に感じていることから発露するメディアでありたい。そのために命を使い切りたい。そのために生まれてきたのだと信じている。
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