ベルリンでは日々、禁止事項や注意事項が追加されていく。特に、人と会えないという方向の禁止事項というのは本当に人を疲弊させる。というか、その閉塞性がエネルギーを奪い、体温が下がってくるような無力感を感じてしまう。人が何によって「生きて」いるのかを痛感する。このある意味での「飢え」のような状況の中で、自分を「生かそう」とするときに出てくる創造性を信じることで、この状況を切り抜けたい。
例えば、家から出ないで自分の好きなことを家でやるというのは、今までにも経験があり、むしろ家にいたいとさえ思ったりもした。実際ほとんど外に出て人に会うことをしなかった時期もあったかもしれない。しかし、禁止されるというのはそれとは全く違った種類の心理的恐怖を与えるもので、それは呪術的な効果と言っても過言ではないかもしれない。
昨日はテンペルホーフフェルドという広場に行って久しぶりに息子と卓球をし、草の上でお茶を飲んだりおやつを食べたりした。その時に、他の人たちは家族や友人で三々五々集まってビールを飲んだりコーヒーを飲んだりしながら楽しんでいた。あるグループはきっちり1.5メートル離れて座って話していた。信号待ちでは人々は互いに1.5メートル離れて待っている。この状況でできることはしながら、自分の心を満たす行為をしているように見えた。こうやってなんとかやり過ごせたらいいと思っていたけれど、3人以上集まってはいけないということが決まったらしい。人々の精神的な苦痛は計り知れないと感じている。その状況が終わる日程が、せめてわかればいいのだけれど。
体の観察
両方の手首から力が抜けてくるような感じがある。呼吸に意識を向けていくと指先に血が戻ってくるような感じがある。心理的な状況と血液の関係を感じる。両肩の付け根が少し縮んでいる。
今日も、自分が追い詰められたような精神状態になっていく感じがやばいと感じ始めていて、パソコンでの作業がどうしても手につかなかったのでテンペルホーフに向かった。その途中で、昨日まではあったレストランの通り沿いの椅子や机がすべて撤去されていた。トルコ系のお店が多く、その前に呆然と立ち尽くしているトルコの人たち。みんな立ち話したり立って食べたりしている。昨日まではまだ笑顔があった人たちの顔に血の気がない。それをみて、自分にそれが跳ね返ってくる。人と会ったり喋ったりするということが人に与えるエネルギーの大きさに愕然とする。そんな憂鬱な気分でテンペルホーフに到着してみると、人々は二人ずつの友人同士かあるいは家族のみになっている。草原に寝転んで、雲ひとつない空に羽ばたく息子があげている凧の鷲を眺めながら、その近くでたった一人でギターを弾きながら歌っている人の声を聞く。生演奏がこんなに胸にしみるのは何年ぶりだろうか?そのあと、卓球する場所に行くとそのテーブルは使われていてなかなかあかない。あきらめて帰りかけたとき、やっとテーブルがあいて卓球をしてみると、一気に気分が晴れてくる。いままで、卓球なんて求めてやったこともないのに、今の私にとってこれなしでは生きていけないほどに飢えていた感じがする。いったい私は何に飢えているのだろう?
体の観察
昼間に比べるとだいぶ落ち着いている。外に出たり卓球をやることの効果が自分に絶大なことに驚く。体は疲れているが、状況を受け入れる準備が少しずつ進んで来ているような気がする。また、息子の存在にとても助けられている。
2020年3月24日火曜日
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