演劇は、岡田氏も言うようにとても原初的な表現形態として誕生したし、人々にとってもメディアであり続けたように思う。それはヨーロッパの文化に限らず、どんな国にも、どんな村にも、それはあったのではないだろうか?
でも「ダンス」という言葉で線引きされる言葉がさす物はなんだろう?その中に、「前近代的」と名指されるような表現が含まれるか?というと、およそ含まれないのではないだろうか?
「ダンス」という英語についての話として、厳格に線引きして語るとしたら、その源泉はクラシックバレエであり、その後の動きとしてモダンダンスというようなことになるのだろうか?それ以外にもいろいろな名前で呼ばれたいろいろなムーブメントがあったけれど、それらは基本的に身体を統制することで、外側からどう見えるかという基準とコントロールの実感をあわせるようにして起きて来たことなのかもしれない。ただ、そのコントロールの実感が卓越していると外側からどう見えるかという問いを追い越してしまい、この世の物とも思われない何かが出没するということはあるだろう。しかし、そこには評価基準があるていど統一された何かとしてであっただろう。
舞踏は、そういった流れの中でどう読み解かれるのだろう?
外側からどう見えるか?という基準はそのままに、その良しとされる評価基準が全く違うという解釈もできる。しかし、線引きできないさまざまな、「前近代的」と言われるような表現形態の歴史から何かを吸い上げる可能性は十分にあったはずだと思う。それについてアプローチしている人がどのくらいいるのか?知りたい。
いわゆるグローバルな評価のフィールドの外にあるような活動をしている人々の中にどういった多様さがあるのか、まだ知らなすぎる。
私は、外側から見た動きを導きだすコントロールができなくなる状態の身体に向き合って来たということなのだろうか?だとしたら最も反ダンス的なことをずっとこだわってやってきたということになるのかもしれない。それはどんな歴史に接続できるのだろう?何かに対して「反」であることなんてべつに望んでもいないのに。
そういった身体が映し出すもの、見えない物が立ち上がって見えるような瞬間、現実に起きていることのシステムをあぶり出してみせるような身体の瞬間を立ち上げることができたらと、いつも切望している。これはどんな歴史に接続し得るのか?あるいはし得ないのか?
2013年2月27日水曜日
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自分にコメント。
返信削除「ダンス」というだけで考えたら、フォークダンスもディスコダンスも、ダンスはダンスだなあ。そう考えたらもっと広い意味にとれるのだ。
ランバダもダンス、ヒップホップもダンス、日本では「舞踊」という言葉がちょっと前まで一般的だったけれど、「踊り」と「舞踊」と言葉が違うとずいぶん印象が違う。言葉で何かを区切って考えること自体が無効なのだろうか?自分の立ち位置が全く良くわからなくなる。
舞踊家 ダンス作家 コンテンポラリーダンス ダンサー…
しかし、民俗芸能に見られる踊りというのは、呪術的行為でもあり、神様に奉納する行為でもある。「作家」とか「舞踊家」とか「ダンサー」とか言う言葉からはかなり遠い気がする。しかし昔は専門職が多かっただろう。「おどり太夫」とか「花太夫」とかの言葉もある。そして、歌舞伎の前身、能の前身があって、鎮魂だけではない見せる行為としての専門家となっていく…。とりとめがなくなってきた。また整理しよう。