2013年2月14日木曜日

終演後 その3 定義、内と外


 そもそも、現代的な芸術活動をしているindividualなダンス作品と、民俗芸能の隔たりはとても大きく、そのどうしようもない足下の違いは何か?ということがわたしにとって大きかった。だから、今回の作品では、その隔たり自体に向き合うということが出発点だったのかもしれない。その隔たりを観察することが、作品を立ち上げることに繋がった。そのことに2年費やしたってわけだ。

 現代の芸術活動に繋がるとされる、芸術の起源はどの辺まで遡って考えられているのだろう? どちらにしても、芸術、という線引きの中に入れる事の出来る範疇というものが存在するはずだ。 それは「定義」という名で呼ばれるけれど、どんな人とも共有できる「定義」というものを見据えた上で言葉を使うという発想じたいが実は、俯瞰した視点なのかもしれない。それがヨーロッパ言語圏の関わり方の基本なのかもしれない。そして、それはグローバル化するという宿命があったのかもしれない。

 日本語の訓読みは、意味を固定しきらない性質があるように思う。 その代表的な物を、具体的に探したい。 ただ、「内」と「外」の身体感覚が言葉の使い方に影響を与えているけれど、「線引き」とどのように違うのだろう? 

もともとヨーロッパ言語圏の文化ではなかった人々が、そういった線引きの世界に引き入れられる前に持っていた関わり方が、さまざまな信仰や芸能や生き方を立ち上げていて、それ自体の機能が、コミュニティー別に棲み分けもしつつ何らかの繋がり、流れを持っていた。その力は、こういったグローバル化が促進される線引きの世界の中で、今後どのような役割を持つ可能性があるのか?それを、モノヅクリする私たちが模索できるならそこにいろんな希望がある。ただ同じように感じる人と出会うのが難しい。 

見立ての実験がしたい。その為の見立ての観察が必要だ。でも1人じゃ孤独だ。でも私は自分の中から押し出されるものを人に押し付けがちだから、うまく別の人の興味と関わりながらやるすべを身につけて互いにとっての創造的な関わりにしていかなくてはとも思う。

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