2011年4月12日火曜日

不安の観察−3

また、原発について、ネットなどで、テレビ以外の情報を収集。時間が経つにつれ両極的な情報発信者や思考の傾向が目立つようになる。「必要以上に不安になるな、安心しよう」という方向と、「非常に危険だという事を正しく認識しよう」という両極な情報が増えて行く。マスコミが情報をある程度隠蔽したり故意に選択したりしている傾向ははっきりと感じる。ネットは個々人の感覚からそれに深く反応することで様々な傾向に引き裂かれて行くのかもしれない。反応に反応するものだから、その両極さ加減はどんどん加速的に離れていく。基本的に、原発の設計や現場に昔関わっていた人で今は様々な危険についての証言者となっている人の情報を収集する。原発事情の背景となっている東電とマスコミの関係、政治との関係、アメリカとの関係などが浮き彫りになってくる。
人間社会を動かしている大半がネガティブな感情に端を発するコンプレックスや上昇志向や経済的優位への志向だし、それら閉塞感に伴う、八つ当たりの連鎖の世界だと、それは震災以前からも感じていた。それでも様々な可能性というのは常にあって、物事を動かす契機というのはあると思って来た。けれども、今回の状況と背景を見るにつけ、私がいかに楽観的に考えすぎていたかを思い知った。組織が大きくなるということに伴う弊害についてつくづく考える。規模がある程度以下なら、常に別の可能性や隙間が存在する余地というものがある。けれども大きくなりすぎたら、そのネガティブなエネルギーが限りなく権力的暴力的に人を圧倒し、組織の中で、あるいは、間接的に影響を受ける小社会の中で、権力に影響を受けた公的な学校などの中で自分が何を感じているか?何を望んでいるか?何をイヤだと思うか?そういった個人的な感覚が機能する余地すら失われる。そして、それら閉塞感に伴う八つ当たりの連鎖はより深まり、逆に個人的な感覚を持ったマイノリティーな人間に対する排他性も深まっていく。別の可能性を存在させる余地を削いでしまう。それが人間の現実だと受け止めきることができるか?受け止めなくてはならない。もしそれができるなら、受け止めた上で模索する「別の可能性」のありかたについて考えることもできるかもしれない。

0 件のコメント:

コメントを投稿