2013年3月15日金曜日

内発的 2

母方のおばあちゃんが生きていた頃、ある施設に一時的に預かってもらっていたことがあってそこに訪ねに行った時の事、エレベーターに乗って帰ろうとしたら、あるおばあちゃん(うちのおばあちゃんじゃなく)が1人すーっと乗って来た。そのとたんに看護婦さんが「おばあちゃんどこ行くの〜!」って静止に来た。おばあちゃんは「下に●●さんが来てるから会いに行くんだよ!」と言い訳していて、看護婦さんは「来てませんよ!」と静止する。そんな攻防が繰り広げられた。そのとき、おばあちゃんはそこから一時的にでも逃げたがったんだと思うけれど、そこは決して悪い対応をしている場所ではないけれど、やっぱり「収容」されている感覚になるのも分かる…。逃げたいよね…。と共感してしまったのだ。

他にも、猿が街中で見つかったときに、大捕り物になるけれど、その時、網に収容しようと大人数でかかっている脇を、猿が猛スピードですり抜けて階段を駆け抜けたりするさまをテレビで見た時も、逃げろー!と心の中で叫んでしまった。

内発的 1

内側から勝手に「なってしまう」状態を内発的な状態と呼んでみようと思う。このテーマをあつかった実験を「実験ユニット」名目で行ったのは去年の別府でのことだった。捩子ぴじん氏と二人ですり切れるまで話し合ったり実験しあったりしながらのことだった。

「内発的」「外発的」という言葉は、夏目漱石の「現代日本の開化」〜漱石の現代文明論〜という、和歌山においての行われた講演の記録(明治44年(1911)8月)に載っている言葉だ。

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もし一言にしてこの問題を決しようとするならば私はこう断じたい、西洋の開化(すなわち一般の開化)は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である。

ここに内発的というのは内から自然に出て発展するという意味でちょうど花が開くようにおのずからつぼみが破れて花弁が外に向うのをいい、また外発的とは外からおっかぶさった他の力で已むを得ず一種の形式を取るのを指したつもりなのです/

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http://kindai.sk46.com/meiji/kaika.html

西洋=一般、と考えるのは当時の日本のメンタリティーだったのだろうと思うし現在にも繋がっている部分なのかもしれない。しかし日本の開化が外発的であるというのは、とても鋭い指摘だと思うし、実際にその関係が今でも続いているように思う。




2013年3月11日月曜日

あれから2年

311という大きな震災があって、世界は変わってしまった、というよりも、私たちの世界がどういう状況であるのか?が明るみになって、それまで世界の潜在的な危機を覆っていた目隠しが剥がされてしまった。それが剥がれてしまってはじめて、私たちが何に加担してきたのかを知った。そのことの悲しさと恐ろしさに直面して2年。私にとって時間はまだ止まっている。そして、こういった危機的な方向に世界が動いて行く事を、止められないかもしれないとも思う。それを動かして行く力は、すでに動き始めているから。そこにある膨大な権力とその歴史がずっとこっちの方向に動き続けているから。ただ、その上で私にできることは何か、私たちに出来る事は何か、そこに潜在する別の可能性を常に作り続けること、別の動きの可能性を信じ続けること。未来という時間の感覚をずっと先まで引き延ばし続ける事。そう思いながら、その祈りをどこに投げかけるのだろう?と自分に問う。

2013年3月8日金曜日

関わりのシステムをあぶり出す

被災地の人々の中で、さまざまないらだちがお互いに差し向け合うような状況になっている。震災の被災地だけではなく、関東でもそうだと思う。復興の難しさ、放射能、経済難さまざまな問題に対して、さまざまな人の怒り、いらだちがわき出して、それをどこに向けてよいか分からない。それが、身近な人々への妬みになったり、恨みになったりする。自分の痛みや悲しみいらだちを、誰かのせいにしないと収まらない。

人々の中に生じるさまざまなことは、感情を共なった言動や行動で表れる。
しかし、なにごともないように見える日常、何も問題がなさそうに見える人々のやりとりの下には、実は潜在的にさまざまな感情が渦巻いているし、そのことが見えない所で人の行動や言動に影響を与えているのだ。

だから起きている事に大きな差は実はなくて、そしてどんなことも、関わりの形によって起きている物だと思う。個々人の心持ち、個々人の感情は関わりの差異によって生じたり生じなかったりするのだから。そして、それらの感情による言動や行動が、また関わりを形作って行く。その繰り返し。

だから「関わり」そのものがあぶり出されるような作品作りができたら、と思う。

この欲求と、身体そのものがメディアとして機能するという欲求は表面的には矛盾しているように見える。良く観察すると繋がっているのだと思うけれど。
しかし、矛盾している物事に取り組むことが常に重要なのかもしれない。

2013年2月27日水曜日

ダンスとは何かについて

 演劇は、岡田氏も言うようにとても原初的な表現形態として誕生したし、人々にとってもメディアであり続けたように思う。それはヨーロッパの文化に限らず、どんな国にも、どんな村にも、それはあったのではないだろうか?

 でも「ダンス」という言葉で線引きされる言葉がさす物はなんだろう?その中に、「前近代的」と名指されるような表現が含まれるか?というと、およそ含まれないのではないだろうか?

 「ダンス」という英語についての話として、厳格に線引きして語るとしたら、その源泉はクラシックバレエであり、その後の動きとしてモダンダンスというようなことになるのだろうか?それ以外にもいろいろな名前で呼ばれたいろいろなムーブメントがあったけれど、それらは基本的に身体を統制することで、外側からどう見えるかという基準とコントロールの実感をあわせるようにして起きて来たことなのかもしれない。ただ、そのコントロールの実感が卓越していると外側からどう見えるかという問いを追い越してしまい、この世の物とも思われない何かが出没するということはあるだろう。しかし、そこには評価基準があるていど統一された何かとしてであっただろう。

 舞踏は、そういった流れの中でどう読み解かれるのだろう?
外側からどう見えるか?という基準はそのままに、その良しとされる評価基準が全く違うという解釈もできる。しかし、線引きできないさまざまな、「前近代的」と言われるような表現形態の歴史から何かを吸い上げる可能性は十分にあったはずだと思う。それについてアプローチしている人がどのくらいいるのか?知りたい。
 いわゆるグローバルな評価のフィールドの外にあるような活動をしている人々の中にどういった多様さがあるのか、まだ知らなすぎる。

 私は、外側から見た動きを導きだすコントロールができなくなる状態の身体に向き合って来たということなのだろうか?だとしたら最も反ダンス的なことをずっとこだわってやってきたということになるのかもしれない。それはどんな歴史に接続できるのだろう?何かに対して「反」であることなんてべつに望んでもいないのに。
 そういった身体が映し出すもの、見えない物が立ち上がって見えるような瞬間、現実に起きていることのシステムをあぶり出してみせるような身体の瞬間を立ち上げることができたらと、いつも切望している。これはどんな歴史に接続し得るのか?あるいはし得ないのか?


2013年2月22日金曜日

姿勢と意識のズレ

私が体について考えるときの参考にしている片山洋二郎さんの本に、姿勢と意識のズレについて書いてある。

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仙骨が後ろに傾いた上半身前のめりの緊張状態というのは、基本的に、とても落ち着かない気分になる姿勢です。「気持ち」は一生懸命に行っているのですが、足腰がついてこない。気分的には追われているような感じで、いつも何かをやっていないと落ち着かない。気持ちが常に前に行っていて、気持ちの焦点が「いま」に会わなくなる。
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こういう状態よくなります。特に本番が近かったり何かやらなければならないことがあるときに。それでどんどん悪循環になってなんにもはかどらなくなる。また、

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不安のという感情には根拠がないのです。
何を根拠に、この得体の知れない空虚感が胸の中に沸き起こるかといったら、いろいろな理由付けはできますが、それは突き詰めていえば根拠ではない。不安とは身体が生むものだからです。
(途中略)
逆に言えば、自信にも根拠はない。
(途中略)
人の評価は「気まぐれ」です。それに依存すればかえって不安は大きくなるばかりです。
真の自信というのは、自分の内側からわき上がるものです。
骨盤の動きに弾力があって深い呼吸ができてはじめて、身体の内側から満ち足りた感覚が生まれます。自分が十全に力を出しきることができるという確信は、勝手に根拠なく身体から湧いてくるものです。
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2013年2月19日火曜日

寂しさと線引き

私が、人の対応で何か寂しいと感じる時、だいたいこの線引きに関係しているときが多いようだ。線引きのない関係だと思っていた人が、何かの線引きの向こうに自分を押しやっているように感じる時など。

でも私も都合よく線引きして人を押しやっているときもある。たぶん。そんな時は悪気がないけど人を傷つけているのかもしれない。寂しい思いをさせているのかもしれない。