噂話というのは、いつの時代どの場所でもあるものなんじゃないかと思う。どうしてかというと、まず噂話することで起こるコミュニケーションが楽しいから。過去に、噂されて嫌な思いをしたこともある。でも自分も噂話を楽しんだこともある。そういう人のさがみたいなものを攻めてみても仕方がない。場合によっては名誉毀損なことも起きるかもしれないけど、コミュニケーションがひどく損なわれるようなことはしないようにするというバランス感覚が働くかどうかなのかもしれない。もう一つは、真実が覆い隠されていると感じる時に、小さな情報から様々な推測をして、話す人によって尾ひれがついたりもするだろう。そういう場合、噂話をする人をバカにしたり、見下しつつ分析したりすることで一体何が得られるのだろうか?覆い隠されている真実になにか引っかかる、そういう感覚を共有して、覆い隠して暴利をむさぼる誰かに対して共に怒りを共有することだって可能なはずじゃないのだろうか?
自分が何に合わせて空気を読んで、何かを「信じている」ことにしているのか?そこに思いをはせれば、自分の深いところのセンサーが働いて本当は何を感じているのかにたどり着けるかもしれない。そうなって初めて、違う感じ方を持った人とも向き合える。
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