ウィキペディアによると
慣習法(かんしゅうほう)とは、一定の範囲の人々の間で反復して行われるようになった行動様式などの慣習のうち、法としての効力を有するものをいう。
ということで、例えばコンテンポラリーダンスを取り巻く環境もそういう風に慣習法としての「ダンス」という概念の共有化というのがあったり、それがコンテンポラリーといってもどういう経緯を経てどういう人々とかかわっているかに寄って微妙な差があったりする、そういうものなのかもしれない。
前提を疑う、というのはそういう慣習法のコミュニティーに対しての暴力的な行為になるのかもしれない。
dividual←→individual
で考えた時
ある特定の地域で、そこでの慣習法というのが強くある場合、その中でうまくコミュニケーションを取って行こうとしたら、それはその慣習法に対してできるだけ従順でいるということなのだろうか?そうじゃなくて、そこで自分が大切にしている気づきみたいなものに基づいて、ありのままに生きることも受け止めてもらいつつ、コミュニケーションを大切にする何か柔軟な方法というのを見つけられるのなら、それが一番いい。コミュニティーが大切にしていることに敬意を持って尊重しながら、かつ自分が大切にしていることをありのままに受け止めてもらうことができたら、dividualの新たな可能性に繋げることが出来る。
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