先日、アートラボオーバでスズキクリさんに会った。そこで、今まで調査した民俗芸能を見てもらって、音楽においてのノリについていろいろブレインストーミングした。ノリの気持ちよさというのは、リズムや音のズレや揺らぎによってもたらされるのではないか?という話をした。花祭りには花祭りのズレや揺らぎがあって、それを継承して来た、ということなのだろうか?それって面白い。
また、「実験して、接近する」が近づいてきている。
合宿に突入。
民俗芸能が、その時々の時代に対してメディアの役割を果たしているとするなら、現代においてどんなものが人々のメディアであるのか?
テレビやマンガやゲームは圧倒的大多数の人々を同じ共有のノリや感覚に誘う役割をしているかもしれない。
その最先端をAKB48と仮定してみる。そして秋葉ダンスなどのストリートでは自然発生的になんらかのアウトプットが始まっていると見ることができるかもしれない。それらは、フィクションの世界の恋や友情などを現実に引き出して行こうとする衝動のようなものなのだろうか?
それらは、現実の生きにくさ、関わりにくさと深く関係しているのだろう。しかし、それらに向き合うというよりは、それらと向き合わないことを肯定する方向に加速してきたのかもしれない。
別のところで、生きにくさ、関わりにくさに向き合って来た、反応してきたメディアはあるだろうか?
メディアというのはあまりにも広範囲の言葉だが、現実に起きている様々な物事を映し出す、あるいは、人々に同じ物語や愛着を共有することで、ある種の一体感や仲間意識をもたらし、人々を位置づける役割をするもの。それは映像や文章、体をつかった何か、舞台、美術、他にもどんなところにそれらの可能性があるか?まだまだ、可能性はあるはずだと思う。
2012年1月18日水曜日
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