定期的に自分の体に意識を向けて観察することで、日々の基本的な落ち着きが戻ってきた気がする。
ネットでの人々の見解の違いみたいなものが、それぞれの人の「恐怖を感じるポイント」の違いなんじゃないかとふと思った。例えば、コロナウイルスの重症化や致死率にたいして恐怖を感じるひと、コロナウイルスのまだ不明な部分がたくさんあることへの恐怖、間違った情報によって事態が悪化することへの恐怖、経済的な危機への恐怖、医療的な抗生物質の開発が加速することでウイルスの変化も加速することへの恐怖、不安を煽られることによって人々が冷静でなくなることへの恐怖などなどキリがないけれど、またそれらが複雑に絡み合っていると想像できる。私の場合、「情報の正解は一つである」と人々が思うようになり、それ以外の正しくない情報への恐怖が高まったり、その延長線上で情報を統制することを人々が望むようになる可能性について、怖いと感じているのだと気づいた。そのポイントが違うことを共に理解しあえれば、それぞれにもう少し緊張感が和らぐのかもしれない。
体の観察
自分が手を置いているパソコンと机の接点に意識を向けて、そこから床、壁自分の背後にも意識を向けてみる。時々、心臓がドキドキと鼓動が大きく感じる。そんな時はそこに意識を向けて観察してみる。息を吐く時に、背中の一番背骨が硬く歪んでいるところに吐きかけて、力を抜くことができることを発見。
部屋の観察
息子のピアノ練習の音。車が道路を行く音は昨日より小さく明るく響いている。その音が時々とても小さくなって、あたりがシーンとなる。時計の音が聞こえる。
2020年3月8日日曜日
2020年3月7日土曜日
自分の観察 2020年3月6日
ネットで情報を集めようとすればするほど、肩に力が入って精神状態が悪化してきた。なので、もう一度体を観察することにして、深呼吸をしていったら、ちょっとした執着状態が解放されてくる。特に頭の両側面あたりの興奮状態みたいのものが和らいでくる。ネットの情報は顔が見えない他者のパーソナリティーや、匿名性や、正当性の有無のような何かが自分の何かしらの身体的、精神的反応を引き起こしてしまう。それらをもう少し和らげることができないとシンドイのかもしれない。また、それが本で情報をみつけるのとはちょっと違った点なのかもしれない。テレビの場合はまた違ったストレスがあるのだろうけれど。
体の観察
目の周りの今は緩んでいる筋肉をよくよく観察してみる。側頭部が興奮して感じるときは目の周りの血の巡りがとても悪くなっているような気がする。
ついでに耳を澄ませて音を聞いてみる。遠くの車の走る音が何かに反響してゴワーっと淡い音を響かせている。それが雨の音に混じっていてぼやけている。息子がボードゲームのアイデアをノートに書いていて、その書いている鉛筆が床になんども落ちる音が聞こえる。色鉛筆をいろいろ取り替えながら描いているのか、なんどもなんどもコロコロと音がなる。筆箱のなかの色鉛筆がカラカラなる音が聞こえる。時計の音が聞こえる。
部屋の観察
パソコンにだけ向かっていると、周りが見えなくなって部屋が見えなくなっていることが多いことに気づく。時々、改めて部屋をじっと見てみると、自分の死角になっているものがいろいろ見えてくる。いつも死角になってる部分を改めて見たり、そこのものを動かしたり、ものを少し捨てたりしてみる。一気にいろいろやろうとすると難しいので、気づいたときに少しだけやることで、ちょっと部屋の中の空気がよくなる気がする。
2020年3月5日木曜日
自分の観察 2020年3月5日
いつの間にかひな祭りも過ぎて「春」といってもおかしくない季節になってきた。
昨日はいつも水曜日に行くスタジオの近くで鳥が虫を探している姿を見た。「啓蟄」という言葉が頭に浮かんだ。っと思ったら暦を調べたらそれは今日だった。
体の観察)
後頭部から肩にかけて少しの興奮状態みたいなのがあるらしく力が入っている。力を抜くと呼吸が楽になってくる。胃の裏あたりの骨が硬く少しゆがんで感じる。歯を少し噛み締めている。それを緩めると口の中に少し唾液が戻ってくる感じがする。
部屋の状態)
机の上に書類が散らかっている。
窓が閉じたままになっていることに気づいた。
窓を開けたら気持ち良い風が入ってきた。
しかし、机の上の書類にはいろいろな最近の事柄が複雑に絡み合っていて、それを紐解くのが少し気が重い。
・いくつか行った英語でのWSに使った原稿
・Encounter the process というイベントで作品を推敲していたときのたくさんのメモ
・感想を書きたいと思い続けているハンブルクでみた作品のパンフ
昨日はいつも水曜日に行くスタジオの近くで鳥が虫を探している姿を見た。「啓蟄」という言葉が頭に浮かんだ。っと思ったら暦を調べたらそれは今日だった。
体の観察)
後頭部から肩にかけて少しの興奮状態みたいなのがあるらしく力が入っている。力を抜くと呼吸が楽になってくる。胃の裏あたりの骨が硬く少しゆがんで感じる。歯を少し噛み締めている。それを緩めると口の中に少し唾液が戻ってくる感じがする。
部屋の状態)
机の上に書類が散らかっている。
窓が閉じたままになっていることに気づいた。
窓を開けたら気持ち良い風が入ってきた。
しかし、机の上の書類にはいろいろな最近の事柄が複雑に絡み合っていて、それを紐解くのが少し気が重い。
・いくつか行った英語でのWSに使った原稿
・Encounter the process というイベントで作品を推敲していたときのたくさんのメモ
・感想を書きたいと思い続けているハンブルクでみた作品のパンフ
2020年3月4日水曜日
コロナが流行って思った事
正確な情報を巡って様々な対立が生まれる。
それは間違った情報が蔓延する事の恐怖心みたいなものがあるからかもしれない。その信憑性は、「政府の」発表とか「WHOの」発表とか、できるだけ大きな機関の正式な発表に依存することが多い。しかし、今までの歴史的な観点から言えば、大きな機関の正式な発表でも様々な嘘や捏造は起こってきた。だから本当に何を信じれば良いかわからないから、様々な憶測が生まれるし、そのぶん、それを利用したフェイクな情報も生み出される。片や、それぞれ自分の感覚を基にした見解も記事になっている。それらは科学的であるかどうか、というような検証はしていないけれど、自分が生きてきて感じてきたことを基にしていると思われる。そういうものに対しても、それにさしたる害がない内容であるにもかかわらず「科学的」であるかどうか、真実であるかどうかなどの観点から手厳しい批判を投げる人が結構いる。311が起きた頃からそれは何度も繰り返されてきた。
しかし、何が「科学的」であるか?その信憑性はどうやって確認できるのだろうか?現在正式に発表されている「科学的」と言われている内容であっても、必ず別の見解から間違っていると言う意見がある。全ての物事には、別の見解というのが常にあるものだ。そこで、自分の見解が絶対に正しいという態度で批判し合うほど無駄なことはないと思う。様々な見解があるということを前提として、投げかけや対話がなされるべきだし、その中でお互いにいろいろ考える材料にもできる。
科学的な事は、様々な仮説に対する実験や実践によって確かになっていくかもしれないが、今の所、解明できないたくさんの事が含まれている。今正しいと思われている「科学的」な正解が、覆される可能性はいつでもある。
また、今は「科学的」に正解という認識がないものであっても、実際に有効である経験を積み重ねる事もある。
また、何が「本当の情報」であるか?見極める事はとても難しい。だから結局は自分がどう感じるか?ということがとても大切になると思う。本当に危険かどうかを判断するとき、全てを検証していては間に合わないときがとても多い。結局は感に頼るしかない。感を磨いていくしかない。感を磨くには、まず物事を観察することから始めるのが良いだろう。手始めに自分を観察するのが一番良いと思う。自分がどう感じているかを言葉にする。しかし、自分が「感じていると思っている」ことの下に、本当に感じていることが隠れていることはとても多い。その隠れている部分が見えてくるまで観察を進めないと、感を磨くことはできないだろう。
そして、自分の感覚を使って何かを考え、「問い」が浮かび上がってくる、そしてそれを推敲してあらたな「問い」が浮かび上がってくる、その繰り返しによって自分なりに考えることができるようになる。
「偏った考え」VS「常識的な考え」という構図が生まれてしまうのはなぜだろうか? そのような印象をあたえる仕組みが埋め込まれた記事を見ることが最近多いと感じている。それはある種の印象操作であり、そこに何がしかの目的があるのではないだろうか?
2019年11月9日土曜日
ベルリン日々の問い 16「空気を読む」の正体について
特定の話題を持ち出しずらくなるということが、今の日本で何年か前から続いている。けれども、それに近いことはもっと小さな集団の中で割と簡単に発生する場合がある。つまり、ある小さな集団あるいは組織の中で、特定の話題、あるいは問題意識をそこに乗せてはいけないという暗黙のルールが生じている、それもいつの間にか生じていることがある。それは、お互いの中に発生する空気ということではなく、運営なり経営なりそこにいる一番偉い人のプライドなりに傷がつかないように配慮するという、どちらかといえば「顔色を伺う」という状況が生まれるのが原因なのではないだろうか。これは、人と人が互いに慮ることで上手くやるとかコミュニケーションを快適にするというのと、全く違うフェーズだと私は感じている。顔色を伺うという意味で空気が読めない場合に、別の理由で攻撃を受けたり疎外感を感じさせられるような関係に変化したりする。つまり、そういう不利益を被らない為に、自分も監視する側にまわる。そうすることで自分の立場が安泰になる。そういう悪循環なのかもしれないと思う。そういう状況を打破するとしたらいったい何が必要なのだろう?
ちなみにベルリンでは(あるいはドイツでは)どうなのかということについては、私はまだよくわからない。今はまだ団体にも組織にもほとんど無縁な馬の骨としてさすらっているので…。
ちなみにベルリンでは(あるいはドイツでは)どうなのかということについては、私はまだよくわからない。今はまだ団体にも組織にもほとんど無縁な馬の骨としてさすらっているので…。
2019年10月29日火曜日
ベルリン日々の問い 15 ベルリンと日本と
ベルリンで生活することで、日本との違いもいろいろ見えてくる。でも、その違いを決定的なものとして扱うのではなく、相対的に見るひとつのプロセスとして扱うようにしたい。
例えば、
・ベルリンではいろいろな人が「どう見られるか」ということをあまり気にしていない。
・出会い頭に話しかけたり、微笑みあったり、助け合ったりする。とても気軽に。
・優しい人は本当に優しく、ひどい人は本当にひどい。その差がとても激しい。
・働いている最中の人は、基本的に不機嫌であまり親切ではない。
・働いていない人は、基本的に上機嫌でとても親切。
ベルリンで生活することは基本的にリラックスしていられる。でも別の面を見ると、ヴィザをキープしたり、保険や様々な書類のトラブルが絶えなかったり、いつも緊張にさらされる。日本にいたら、気にしなくていいようなことをいちいち気にしなくてはならない。例えば、もし聞かれたらパスポートを提示できるようにしておいたほうがいいとか、多民族のため、政府はいつも人々がトラブルを起こさないように見張っているという側面もある。税金とか、交通費とか、支払いの不備についての厳しさがすごくて、それも緊張の一つになる。また、もしスリにあったりものの置き忘れがあったら帰ってこないという緊張感もある。でも実のところ、私はクレジットカードを2回も切符の自動販売機に挿し忘れたけど2回ともきちっと帰ってきたので、とても親切な人や正直な人がいるのも事実。
でも日本では時期によって緊張度がちょとずつ違ってくるような気もする。人目を私は日本でそんなに気にしていたのだろうか?あまり気にしていなかったような気もする。例えば空港でももんぺ姿で歩いていたりしていたし、化粧もしてないし、髪もねぐせが付いていたし。
例えば、
・ベルリンではいろいろな人が「どう見られるか」ということをあまり気にしていない。
・出会い頭に話しかけたり、微笑みあったり、助け合ったりする。とても気軽に。
・優しい人は本当に優しく、ひどい人は本当にひどい。その差がとても激しい。
・働いている最中の人は、基本的に不機嫌であまり親切ではない。
・働いていない人は、基本的に上機嫌でとても親切。
ベルリンで生活することは基本的にリラックスしていられる。でも別の面を見ると、ヴィザをキープしたり、保険や様々な書類のトラブルが絶えなかったり、いつも緊張にさらされる。日本にいたら、気にしなくていいようなことをいちいち気にしなくてはならない。例えば、もし聞かれたらパスポートを提示できるようにしておいたほうがいいとか、多民族のため、政府はいつも人々がトラブルを起こさないように見張っているという側面もある。税金とか、交通費とか、支払いの不備についての厳しさがすごくて、それも緊張の一つになる。また、もしスリにあったりものの置き忘れがあったら帰ってこないという緊張感もある。でも実のところ、私はクレジットカードを2回も切符の自動販売機に挿し忘れたけど2回ともきちっと帰ってきたので、とても親切な人や正直な人がいるのも事実。
でも日本では時期によって緊張度がちょとずつ違ってくるような気もする。人目を私は日本でそんなに気にしていたのだろうか?あまり気にしていなかったような気もする。例えば空港でももんぺ姿で歩いていたりしていたし、化粧もしてないし、髪もねぐせが付いていたし。
2019年1月24日木曜日
ベルリン日々問い 14 9月からのあれやこれや
こちらでドイツ語の学校に行き始めてからあまりにも忙しくて、自分がこまごまとやったことを記録することもできなかったけれど、少しずつやっていこう。
・ベルリンの奇妙な人々との出会いについて
これについては後日書く
・ダンス公演の上演10月13日 @URBANRAUM
ベルリンでの奇妙な人々との出会いをそのまま作品にした。自分の中で、何をしたらいいのか?自分がどこに立っているのか?よくわからなくなって、何をどのように探したらいいのかさまよいながら作品を作った。しかし、そのようなわからない状態、さまよっている状態そのままに、途方にくれてる感じそのままに舞台の上に立てたらいいと思って取り組んだ。そして、思った以上にお客さんに響きが伝わった感触があり、ベルリンでやっていけるかもしれないという思いが生まれた。
・Encounter the process 11月 言葉と体の関係ということで、はるかさんに何かを描写する3つのオノマトペで表現してもらい、その質感を体の中にイメージすることで動く。また、「散らす」「ばらまく」「探す」「さぐる」など微妙な違いの動詞と「流れる」「振動する」など自分自身が「なってしまう」動詞を体で表現し、それぞれの言葉がどのあたりの範囲になるか?ということを人の違いによる違いも含めて検証しつつ、その動きを見た時に別の言語(この日はたまたま英語)ではどの言葉にあたると想像するか?という問いにお客さんにも答えてもらい、こんどはその言葉から、もし別の動きがあるとしたらそういう動きか?というのを動いてもらい、こんどはその動きを自分なりに解釈して動きながら、その言葉の範囲を手探りする、という複雑な取り組みを行った。
はるかさんは、いくつかのマテリアルを使って、それぞれと禅問答をする、という試みを行い、映像も使って要素も多くなったけれど興味深い試みにみんな集中してみていた。
・Encounter the process 1月 ひとつは、ソロで「偽の目的意識」によって何かを引き出す、という試みを行った。まず、英語の単語(この日はMirrar)をひとつ書いてもらい、その言葉を体の脇の下から入れ口から出す、という実験。英語はとても難しいと感じ、そのあと日本語で試す。この日は「左に曲がると海が見えます」という文章で、これを左の肩甲骨のあたりから体に入れ口から出した。なかなか面白い響きが生まれた。足立智美氏とのコラボレーションで、「hören」の動詞の変化を練習しながらそれがだんだん歌になるというのをやった。もうひとつ、お客さんにそれぞれ単語を1つずつで3つ書いてもらい、それを使って足立さんが歌を歌い、私はその単語を聞いてその周辺についてを(その単語を使わずに)歌にするというコラボレーションを行った。足立さんのソロの歌もとても興味深いものだった。また、はるかさんは前回やったものを、それぞれマテリアルを一つずつだけにして短い実験を行っていた。より集中度と、そこから派生する動きが自由に生まれていてこれからの展開が楽しみになってきた。
・ベルリンの奇妙な人々との出会いについて
これについては後日書く
・ダンス公演の上演10月13日 @URBANRAUM
ベルリンでの奇妙な人々との出会いをそのまま作品にした。自分の中で、何をしたらいいのか?自分がどこに立っているのか?よくわからなくなって、何をどのように探したらいいのかさまよいながら作品を作った。しかし、そのようなわからない状態、さまよっている状態そのままに、途方にくれてる感じそのままに舞台の上に立てたらいいと思って取り組んだ。そして、思った以上にお客さんに響きが伝わった感触があり、ベルリンでやっていけるかもしれないという思いが生まれた。
・Encounter the process 11月 言葉と体の関係ということで、はるかさんに何かを描写する3つのオノマトペで表現してもらい、その質感を体の中にイメージすることで動く。また、「散らす」「ばらまく」「探す」「さぐる」など微妙な違いの動詞と「流れる」「振動する」など自分自身が「なってしまう」動詞を体で表現し、それぞれの言葉がどのあたりの範囲になるか?ということを人の違いによる違いも含めて検証しつつ、その動きを見た時に別の言語(この日はたまたま英語)ではどの言葉にあたると想像するか?という問いにお客さんにも答えてもらい、こんどはその言葉から、もし別の動きがあるとしたらそういう動きか?というのを動いてもらい、こんどはその動きを自分なりに解釈して動きながら、その言葉の範囲を手探りする、という複雑な取り組みを行った。
はるかさんは、いくつかのマテリアルを使って、それぞれと禅問答をする、という試みを行い、映像も使って要素も多くなったけれど興味深い試みにみんな集中してみていた。
・Encounter the process 1月 ひとつは、ソロで「偽の目的意識」によって何かを引き出す、という試みを行った。まず、英語の単語(この日はMirrar)をひとつ書いてもらい、その言葉を体の脇の下から入れ口から出す、という実験。英語はとても難しいと感じ、そのあと日本語で試す。この日は「左に曲がると海が見えます」という文章で、これを左の肩甲骨のあたりから体に入れ口から出した。なかなか面白い響きが生まれた。足立智美氏とのコラボレーションで、「hören」の動詞の変化を練習しながらそれがだんだん歌になるというのをやった。もうひとつ、お客さんにそれぞれ単語を1つずつで3つ書いてもらい、それを使って足立さんが歌を歌い、私はその単語を聞いてその周辺についてを(その単語を使わずに)歌にするというコラボレーションを行った。足立さんのソロの歌もとても興味深いものだった。また、はるかさんは前回やったものを、それぞれマテリアルを一つずつだけにして短い実験を行っていた。より集中度と、そこから派生する動きが自由に生まれていてこれからの展開が楽しみになってきた。
登録:
投稿 (Atom)