2022年12月15日木曜日

私たちは循環の破壊をとめられるか?

 ある日、気持ちよく晴れた午前中に畑の玉ねぎの苗の様子を見ていた時、不意に風が吹いて、周りの雑草がゆるく風に揺れていた。その瞬間、何かちょっとした瞑想状態というか、違う次元を感知するような瞬間があり、でも周りに友人たちがいてハッと我に帰った。自然の一部として決して切り離すことのできない人間である私たちは、目に見えない次元であっても知らない間にさまざまに感応しあっている。動物たちも、植物たちも、わたしたちが普段意識しない、そういった深い繋がりがある。その一方で、互いに競い合うように、あるいは高め合うように拮抗しあってもいる。食べたり、食べられたり、寄生したり、されたり、土の栄養や太陽からの栄養をより多く求めたり。その二つのまるで真逆とも思えるような働きが同時にあることの不思議。

しかし、例えば聖書の中に植物や動物が人間のために神から与えられたというような記述があるように、自然のシステムの中から人間だけを特別の枠組みに切り離すという考え方が一般化した。そこから自然をコントロールし、栄養を得る、あるいはそれによって金銭的な利益を得る、という発想になっていったのかもしれない。農薬や肥料を施し、はては遺伝子を組み替えて、そのことで収穫が増える。あらゆる産業は、自然をもとにしなければ成り立たないにもかかわらず、線引きされた産業の発展や技術の進歩に、それで得られる利権や利益のため、ひたすら何かを破壊しながら突き進む。自分達で勝手に引いてみた特別な線引きなど何の役にも立たず、そのことで起きる循環の偏りが私たちの身心を蝕む。そうなることは理性的に考えれば分かるが、その理性を失わせる作用が、特別の枠組みを設定することで起きてしまうのだろうか。ずっと前から産業によって押しつぶされ続けているが、そこに依存し離れることができない。

翻って、人を線引きし、例えば誰かが自分達だけを特別の枠組みに切り離し、枠組み以外の人たちを侵略しても良い、あるいは略奪しても良いという理由づけにしてしまう。特別な枠組みを羨む人が自分も次に特別な枠組みの中へ行こうと線引きし、それ以外から略奪し、一度始まってしまったシステムは下へ下へと線引きを繰り返して、略奪する側に回ろうとする。それは、自然の中から自分達を特別の枠組みに線引きしたときすでに始まっていたのかもしれない。現在、特別の枠組みにいると思っている人たちが、それ以外の人たちをコントロールして、植民地主義的な行為を繰り返し、侵略、略奪し、社会の中でその影響が拡大し、とんでもない歪みが生じたら、おそらく、特別な枠組の中からコントロールしてる側にも、その害は必ず到達する。自然から人間を線引きしたところで、全ての害が人間に至るのと同じように。それがわからないのは、やはり理性を失っているからなのだろう。

ところで、さまざまな古い神話や儀式の読み解きをする中で、オオゲツヒメ神話やニューギニアのマヨ祭のように栽培の起源を理解するための物語に注目している。そこにはちょっと残酷な殺害シーンがあり、その死骸から食物が生え出てくるシーンが描かれ、あるいは儀式で再現される。また、ケルト神話においても、人間の犠牲を捧げられて満足する恐ろしい神「クロム・クルアク」に関する解釈として、人間の犠牲が豊穣を促すという信仰、というものがある。殺戮するという手段を取りつつ、再生のサイクルを維持する、その活力を促すためには人間の犠牲がなくてはならないという信仰なのだと言う。実際に生贄の犠牲となった遺体も発掘されている。人はあるとき、自分達が循環を壊しうる存在であるということに気づいてしまったのかもしれない。そのとき、それをどうやったら止めうるか?という何かしら哲学にも近い世界への構造的理解というものを求めた結果、こういった神話や儀式が生まれたのかもしれない(生贄を肯定するという意味ではもちろんない)。しかし、「どうやって止めうるか?」という問いは、産業の発展を加速させる近代システム、すなわち「線引き」のシステムによってかき消され、世界への構造的理解は失われた。そして、循環の破壊され続ける世界の中で、人は人を侵略、略奪し、殺し続ける。この殺害はいったい何を意味するのだろうか?



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