2023年1月4日水曜日

お正月明け 絶望について考えた 2023年1月4日

  お正月明けの朝、起きがけに頭がぐるぐると回ってしまって、絶望について何やら考えていた。



 人々は基本的に、普段は信用システムの中で生きている。少なくとも日本では。
顔の見える範囲では信用を失ったら生きてはいけない。地域では人々がそれぞれ健康ですこやかに生きられるように配慮した行政サービスが行われ、国の健康保険や年金やさまざまなサービスも、またそのための税金も国民のためであると考えるのがごく自然だ。だから、国際機関も、人々の平和のためや健康のために、人々を守るためにさまざまな提言や規制がなされるものだと考えるのは当然のことだ。たとえ、その人選や提言の正当性を問う権利が我々になくても。けれども、世界は信用システムと同時に詐欺システムが存在し、両者は判別するのが難しい。顔が見えないところで売上のために尽くす人の真面目さは詐欺さえ正当化してしまう強迫観念に身をやつしている。また、元々信用システムで成り立っていたものが、経済的な危機を乗り越えようとする時にゆるやかに詐欺システムに移行してしまうこともあるだろう。その意味で、それはとてもありきたりなことだ。

 

 今、世界で起きていることは、「陰謀」などという大袈裟な言葉を使うまでもなく、世の中で何度も目にしたことのある、利権を得続けたい大企業と権力者の癒着で、それがグローバルな規模で起きているだけ。あまりにも、あまりにも「ありきたり」なことだ。大きくなるとそれを摘発する組織もなく、庶民を欺くことさえできればいいわけで、ちょろい。そのための技術は専門の機関が担当して長らく試行錯誤が行われ続けているし、マスメディアだけじゃなくSNSを利用できればもっと具体的にコントロールが可能になる。調べていけばわかることだが、南米でも、アフリカでも、イランでも、大きな国際機関と多国籍企業の癒着によって人の命をなんとも思わないような暴挙は行われ続けたし、それを実感している人にとっては、「またか」という感じかもしれない。

 ありきたり、とはいえ、規模が大きくなるとやることも大きくなる。大きくなればなるほど、容易にそれは受け入れがたく、目を背けたくもなる。

 

 ロックダウンのベルリンで、私は静かにゆっくりと絶望という地平に降り立った。絶望とはいっても、それを丸ごと受け入れてしまえば、自分を愛してくれる人がいる奇跡と共に、それは丸ごと世界の神秘だ。それからというもの、自分の内側から訳のわからない熱が溢れ出すようになった。迷いが消えた。とても怖くて目を背けたくなるような現実は、目を背ければ背けるほど、ポジティブに生きようとする光の影として濃く強く存在感を発揮する。一度向き合ってそこに意識を伸ばしてみると、実は、それらは自分の一部でもあることがわかる。知らない森に吹く風や、深海の微生物へと意識を伸ばして自分の一部であると感じることができるように

 すなわち、それは自分にもできることがある、ということだ。すると、役割に繋がっている感覚が自分を生かし始める。

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