お正月明けの朝、起きがけに頭がぐるぐると回ってしまって、絶望について何やら考えていた。
今、世界で起きていることは、「陰謀」などという大袈裟な言葉を使うまでもなく、世の中で何度も目にしたことのある、利権を得続けたい大企業と権力者の癒着で、それがグローバルな規模で起きているだけ。あまりにも、あまりにも「ありきたり」なことだ。大きくなるとそれを摘発する組織もなく、庶民を欺くことさえできればいいわけで、ちょろい。そのための技術は専門の機関が担当して長らく試行錯誤が行われ続けているし、マスメディアだけじゃなくSNSを利用できればもっと具体的にコントロールが可能になる。調べていけばわかることだが、南米でも、アフリカでも、イランでも、大きな国際機関と多国籍企業の癒着によって人の命をなんとも思わないような暴挙は行われ続けたし、それを実感している人にとっては、「またか」という感じかもしれない。
ありきたり、とはいえ、規模が大きくなるとやることも大きくなる。大きくなればなるほど、容易にそれは受け入れがたく、目を背けたくもなる。
ロックダウンのベルリンで、私は静かにゆっくりと絶望という地平に降り立った。絶望とはいっても、それを丸ごと受け入れてしまえば、自分を愛してくれる人がいる奇跡と共に、それは丸ごと世界の神秘だ。それからというもの、自分の内側から訳のわからない熱が溢れ出すようになった。迷いが消えた。とても怖くて目を背けたくなるような現実は、目を背ければ背けるほど、ポジティブに生きようとする光の影として濃く強く存在感を発揮する。一度向き合ってそこに意識を伸ばしてみると、実は、それらは自分の一部でもあることがわかる。知らない森に吹く風や、深海の微生物へと意識を伸ばして自分の一部であると感じることができるように。
すなわち、それは自分にもできることがある、ということだ。すると、役割に繋がっている感覚が自分を生かし始める。
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