2022年11月6日日曜日

魂を貶められたくない 2022年11月6日

朝、目覚めぎわに、頭の中で何がしかの怒りみたいなものが私を突き上げていた。

寝がけに読んだ村上春樹の文章、「エルサレム賞」の受賞挨拶を読んだせいかもしれない。

「私が小説を書く理由は、煎じ詰めればただの一つです。個人の魂の尊厳を浮かび上がらせ、そこに光を当てるためです。我々の魂がシステムに搦め取られ、貶められることのないように常にそこに光を当て、警鐘を鳴らす、それこそが物語の役目です。」

私にとって自分の活動は人々が「社会からの振り付けの外に出る」可能性を探ることだと思っている。それはやっぱり一人一人の魂の尊厳を浮かび上がらせ、そこに光を当てるためにちがいない。システムに貶められたくない。

3年ほど前から世界が一丸となって行こなってきた人々への全体主義的行動の強要はまさに一人一人の魂の尊厳を貶める行為であると私は感じている。人と人の距離を引き離し、集わせず、歌わせず、踊らせない。もしそれらがしたいなら、マスクをつけ、ワクチンをして、テストを受け、体温を測らなければならない。人々が互いに監視し、管理しあう世界。この全体主義的世界への移行は過去に起きたような強くて怖くて悪い指導者による圧力を必要とせず、人々が自らそれらを求めるように押し進められた。世界中が一丸となって「何か」との戦いをするために「団結」するという美談は人々に「連帯感」らしき感覚を味あわせたかもしれないが、実際には、人と人は分断され、プラスチックパネル越しに悲しく引き離され、連帯のための「黙食」や「黙浴」を強いることで孤立させる。世界全体の「連帯」なんてものを信じるのはとても恐ろしいことだ。「〇〇のため」公益を優先させなければならない、なんていうセリフは権力者の常套手段だということを何度でも思い出さなければならない。何かの措置がどうしても必要だとしても、人権を侵害することをギリギリまで避け続けなくてはならないはずだ。プロパガンダとそうでないものの区別を、目的のためのレッテル貼とそうでないものの区別を検証しつづけるべきだし本当に慎重に見極める試行錯誤をし続けるべきだ。芸術を行うことで世界に向き合うなら、舞台活動を行うことで人々の魂に何かを語りかけるのなら、それらをバックアップするために社会と芸術の間に立つのなら、自分の立場でもできる何某かの可能性を見つけ続けるべきだ。そうじゃないだろうか?

芸術も、舞台活動も、どんな分野でもみんなでこのことに協力しつづけている状況がここまで続いてしまったのには大まかに言えば3つの恐怖による突き上げがあったのではないだろうか?

1.自分が感染の当事者になるのが怖い

2.人にうつすのが怖い/それが連鎖することが怖い

3.人に糾弾されるのが怖い

確かに、感染による被害が大きいかもしれなければ恐ろしいし人にうつしてその人が重症になってしまう可能性を「想像」してしまえばとても恐ろしいことだ。そのことだけにクローズアップすれば。しかし、一番怖かったのはやっぱり三つ目なのだと思う。人々がそれを恐れるようにたくさんの「魔女狩り」が行われ続けた。感染対策が完璧じゃないためにクラスターを起こしたとか、打ってなかったから罹ったとか、たくさんの、本当にたくさんの「魔女狩り」は行われ続けた。だから人々はそれに怯え続けた。時には「魔女狩り」を恐れるあまり「魔女狩り」をする側にまわる。自分が「正しい側にいること」を証明するために。これが庶民の弱さでもある。今も、まださめやらぬ恐怖があって、まだまだこの全体主義的傾向は終わらない。終わらないうちに、次の一手が繰り出されてしまうかもしれない。ある動画配信のインタビューで聞いた法則はかなり正確にこのことを言い当ててるように思う。

大衆形成が長引くと

個人と個人の間の連帯感が吸い取られ

個人と集団の間に注入され投資される

集団への帰属意識の方が個人間の結びつきより強くなる

根っこは寂しさや孤独感だ

でも集団への帰属意識を高めた結果、結局はより一層の寂しさを生む

それによって次の大衆形成に対してさらに更に脆弱になる

次の大衆形成はさらに熾烈で破壊的かもしれない



0 件のコメント:

コメントを投稿