ある土地を訪れてとある民俗芸能をリサーチしたり、とある本を読んでいたりする時に、それまで自分が思っていた認識が大きくずれる時がある。また、さまざまな人の営みの細部にはそれぞれ独特の流儀や感覚が働いていることもあるけれど、そういったことがこの世にあることをすっかり忘れてしまっていたことに驚くことも多い。ある物事が起きれば、その物事に対する感じ方や考え方、その影響の仕方は実際にはとても多様であるということを、すっかり忘れて生きていることに自分でも驚く。実際に、自分が見えない部分は全て、自分の知らないことであり、知っていることに比べてそれらが無限に等しく広がっていることを忘れてしまうなんて…。その原因の一つは、テレビなどのメディアや学校からの情報が均一化されていることではないだろうか?研究者の学説なども、メジャーであるか、そうでないかが重要になっていき、マイナーなものは人の目に触れることも少ないし、触れて話題になっても「とんでも」というレッテルを貼ればほとんどゴミ箱行きになってしまう。そうやって共通の「前提」が作られる。でもその「前提」に疑問を持った人たちが多様な見解に心を開き続けられるかどうか、というとそれもまた怪しくて、ある種の偏りの深みにハマってしまうこともよく目にする。それは、攻撃されることへのある種の防御の姿勢なのかもしれない。背を向けて突き進むような…。
ところでマイナーというレッテルを貼られた人が後になって正しかったことはよくあることだが、人はそういった可能性について、保留にしておくということが難しい生き物なのかもしれない。逆に、均一化された「前提」を疑った時に見えてくる別の「前提」に対しても、「そうだ」と決めつける前に保留にしておくことができれば、保留と保留を持ち合っていくらでも対話が可能になると思う。
でも、日本での人の感じ方の中には保留という感覚が他の文化圏より多いような気もする。「どうかな…よくわからない…」という感じ。悪く言えば日和見だが、保留にしておく力は今のような世の中には一番必要な弾力性なのかもしれない。よく言えばそれが謙虚な姿勢かもしれない。だって、わからないことの方が世の中にはたくさんあるのだから。
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