世の中にはいろいろな人が生きている。だから考えること、感じることが違うのは当たり前だ。そのような状態でもみんなそれなりに違いを受け入れながら生きていたのだ。たとえば宗教が違っても一緒に生きていた人たちが、何かの工作をきっかけに憎み合うようになり紛争がはじまってしまうように、医療に関する考えや感じ方、ワクチンへの考え方もいろいろな人がいてもそれが分断のきっかけになるようなこともなかったのに、今ではそれが分断の主流になってしまった。分断を煽って深刻化させる動機となるような投稿も工作として行われているように感じる。
極端な陰謀論の投稿やホームページや実際のデモのグループも、懐疑的な人々にレッテルを貼るための工作として行われている可能性もあるかもしれない。そのようなレッテルを貼られることを恥ずかしいと感じるのでそのことへの議論が行われなくなる。
分断が助長されるのもいやなのでそのことを人と話すことを避けるようになる。
疑問を持っている人は孤立していく。
ショッキングな映像、画像、エピソードによる恐怖、混乱は物事を多角的に見る態度を消失させ、死角を作る。そこへ有無を言わさぬ「正義感」に満ちた投稿や、そのことで困窮した人々の画像や映像が使用され、人々を感情的に刺激する。
ところで、なんでそんなことを?
私の考えではこういったことは要するにある産業の利権や利益のために行われていると思う。たとえば遠因をあたえた戦争を「仲裁」してエネルギーの利益を得るため、邪魔者を排除して腐敗政権を打ち立てることで利益をえるため、戦争経済を活発化して利益を得るため、ワクチン接種者を極限まで増やし、依存させて余すところなくその利益を得るため。原発の莫大な利権を守るためにメディアに悪いことが一切乗らないように黙らせることにお金をつぎ込んで利権を維持するため。つまり、ビジネスの一環としてそれぞれがプロの仕事をしているだけだ。その効果をあげるために広告代理店にお金を支払い、誰かを黙らせるためにその人の利益いをちらつかせ、軍事下請け会社を通してSNSをつかった工作も行う。庶民が分断して違いに感情的に言い争っていてくれたら、本来の問題点や不正に目が向くこともなく安泰である。
でもこういったことは別段特殊なことではないのかもしれない。というのも、農業は天候や虫の害などさまざまなリスクがあって安定しない。なので、少しでも多くとれるように、安心して農業が営めるように様々な努力を重ねてきた。その努力の中に化学肥料も農薬もある。種の品種改良もどんどん行う。もう少し改良すればもう少し収入があがる、もうちょっと危険なものでもたぶん大丈夫だろう、そういった繰り返しが気がつけば人の健康にもなんらかの影響が出るようになってきたのかもしれない。食品添加物も、工場の汚染も、すべて、少しでも売り上げをあげようという努力の積み重ねの結果なのかもしれない。それを止めようとする人は売り上げの努力を邪魔する「敵」とみなされるのかもしれない。そして、利権や利益を守ろうとしていた側の人々も平等にそれらの害を被っていく。なんとか分断や孤立を防いで感じ方考え方の違いを受け入れあいながら少しでも害の少ない未来への道筋を共に考えられないものだろうか?
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