産業化の成り立ちについてぼんやり考えている。どんな人も収入を安定させていたい。なんなら、収入が少しずつ増えていてほしい。収入というのは誰かが何かを買ってくれるということだ。何かを買い続けてくれたらもっといい。だから、今まで人が気づかなかったニーズを新たに作る。それまで人々が欲していなかった何かを「欲する」状態をつくる。そしてそれなしでは生きられないほどに依存させることで、今までになかった莫大な利益が見込まれる。それは会社にとっての正義だ。それらの買い換えるペースが早いほど儲けは大きい。スマホやパソコンもそうだけど、薬などの医薬品も一度それがないと生きれないようにしたり、不安を煽ってたくさん摂取させたりするほど儲かる。そのための宣伝、あるいは、それがないと不安であると思ってもらえるプロパガンダが必要。ライバルを潰すべくプロパガンダもプロに依頼できる。お金を使って外注し、様々な工作を行って、依頼された側はただ仕事をこなすだけだ。それらすべては売り上げ向上という会社にとっての正義だ。産業のため、売り上げのため、会社の利益のために「うそをつくこと」も正当化されてしまう、という状況が加速している。命を守ろうとする行為が命を脅かし、反戦を叫ぶ振る舞いが戦争を拡大していくカラクリ。
フェイク、「陰謀論」、ネガティブなレッテルは強烈に作用する。そのレッテルを貼られないように振る舞うか、開き直ってムキになってしまうか、その場合でも逆の振る舞いを振り付けられたようになってしまう。
「公益」を巡る正義が広く示される中で、効果がなくても実行する規制、リスクがあってもそれを負ってでも順守しようとする人々の態度とその積み重ねは、多くの人が何に対しても「服従」を容認する世界への変化を促進するだろう。「人権」という概念が問われることなく変化が進む。むしろ、それを人々に示すショーが行われているがごとくだ。またそのことを人々が受け入れるという意味でコントロールする側の勝利となってしまう。そして、そのために起きることはコントロールする側にも帰ってくるだろう。
しかし、こういったことも大きな自然という概念でいえば自然なのだろうか?人間すべてを消し去ってゼロから初めても同じ結果になるかもしれない。今最高の勝ち組の人たちが全て消え去っても、残った中から同じことをする人が現れて結局同じになるかもしれない。今まであったどの革命でも同じようにもっとひどい指導者による圧政にとって代わるだけだったことも多い。
デザインされた振る舞いの外に出ること。意に沿わないことを強要されることから逃げ切ること。たとえ、ごく身近な人の「正義」の立場からの訴えであっても。そこにある種の不和が生じると感じても。粘り強くコミュニケーションを重ねながらそれができたら…。
最近、デザインされた振る舞いの外に生きているたくさんの人に出会うことが多くなった。その人たちと一緒にいる間は、デザインのことなんて全く忘れてしまうほどだ。自分もそういった生き方の方に意識をもっと集中した方が良いのかもしれない。精神衛生が極めて良い。その人たちから多くを学んでいる。頭ではわかってたことでももっと身体的に受け取れることが多くなった。「自然に沿う」とは起きたことを受け取り、そこから学ぶ態度のことなのかもしれない。
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