第6章 戦争に救われた鉄の女
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ニクソンの在任中、フリードマンは厳しい教訓を得た。資本主義と自由はイコールであるという教義を打ち立てたものの、自由の国の人々にはかれの助言に従う政治家に投票する様子がまったく見えない。もっと悪いことに、自由市場主義を実行に移そうという気のあるのは、自由が著しく欠如した独裁政権だけだった。このため70年代を通じてシカゴ学派のなだたる学者たちはアメリカ政府による裏切りに不満を漏らしつつ、世界中の軍事政権を飛び回った。右派独裁政権が成立した国という国のほとんどにシカゴ学派の影がちらついていた。ハーバーガーは1976年、ボリビアの軍事政権の顧問となり、79年にはアルゼンチンのトゥクマン大学から名誉学位を授与されている(当時、同国の大学は軍事政権の管理下にあった)。さらに彼ははるかインドネシアでも、スハルトとバークレー・マフィアに助言を与えた。フリードマンは抑圧的な政策をとる中国共産党が市場経済への移行を決めた際、経済自由化計画を立案した。
カリフォルニア大学の筋金入りの新自由主義政治学者ステファン・ハガードは、「発展途上世界におけるもっとも広範な改革への取り組みのいくつかが、軍事クーデター後に行われた」という「悲しい事実」を認め、南米南部地域やインドネシアのほかに、トルコ、韓国、ガーナといった国をあげている。また、それ以外に改革が成功した例として、メキシコ、シンガポール、香港、台湾といった一党支配体制にある国を挙げている。ハガードはフリードマン理論の中心をなす主張とは正反対に、「良いこと_例えば民主主義と市場志向型の経済政策_は必ずしも両立しない」と結論している。実際のところ、80年代諸島には全力をあげて自由市場経済化を進めている複数多党制の民主主義国家はただの一例も存在しなかった。
中略
大西洋湾の向こうでは、サッチャーが「所有者社会(オーナーシップ・ソサエティー)」とのちに呼ばれるようになった政策を掲げて、イギリス版フリードマン主義を実行しようと企んでいた。その要となったのは公営住宅である。サッチャーは、国家は住宅市場に介入すべきではないという思想的根拠から、公営住宅に反対していた。公営住宅の住民の大部分は、自分たちの経済的利益につながらないという理由で保守党には投票しない人たちが、もしその人々を市場に参入させられれば、富の再分配に反対する裕福な人々の利害を理解するようになるはずだとサッチャーは確信していた。
中略
公益住宅売却は、民主主義国家における極右経済政策の成功へのかすかな望みをもたらしたものの、サッチャー政権が一期限りで終わりそうな気配はまだ濃厚だった。1979年、サッチャーは「労働党は機能していない」というスローガンを掲げて政権の座に就いたが、1982年には失業者は倍増し、インフレ率もしかりだった。サッチャーはイギリスでもっとも強力な労働組合のひとつである炭鉱労組と対決し、組合潰しにかかるが失敗に終わる。首相就任から3年後支持率は25%にまで低下、政権の支持率も18%にまで落ちた。総選挙が迫るなか、保守党が大衆民営化と労働組合解体という野心的な目標を達成するのを待たずして、サッチャー主義は早々と不名誉な終わりを迎えるかに思われた。サッチャーがハイエクに対し、チリ型の経済改革はイギリスでは「とうてい受け入れられない」と丁重に断りの手紙を書いたのは、この困難な状況のさなかのことだった。
中略
シカゴ学派の提唱する急進的で高い利益をもたらす政策は、民主主義体制かでは生き延びられないということだ。経済的なショック療法が成功するには、クーデターであれ、抑圧的な政策による拷問であれ、何か別の種類のショックが必要なのは明らかに思われた。
こうした見方は、とりわけアメリカの金融業界にとって憂慮すべきものだった。というのも80年代始め、世界ではイラン、ニカラグア、ペルー、ボリビアなど独裁政権が次々と崩壊し、まだ多くの政権が後に続く様相を呈していたからだ。のちに保守派の政治学者サミュエル・ハンティントンは、これを民主化の「第三の波」と名づける。これは危惧すべき状況だった。第二、第三のアジェンデが出現してポピュリズム的政策を打ち出し、人々の信任と指示を得ることを防ぐ手立てはあるのだろうか。
アメリカ政府は1979年、イランとニカラグアでまさにそのシナリオが現実になるのを目の当たりにした。イランではアメリカの指示を受けた国王が、左翼陣営とイスラム主義者の連合勢力によって打倒された。最高指導者アヤトラ・ホメイニやアメリカ大使館人質事件などが報道を賑わせる一方、アメリカ政府は新政権の経済的側面にも懸念を募らせていた。まだ本格的な独裁政権には以降していなかったイラン・イスラム政権は、まず銀行を国有化し、次には土地再分配計画を導入。また王制時代の自由貿易政策から逆転して輸出入の統制を行った。五ヶ月後、ニカラグアではアメリカを後ろ盾にしたアナスタシオ・ソモド・ドバイレ独裁政権が市民の蜂起によって倒れ、サンディニスタ民族解放戦線による左派政権が誕生した。サンディニスタ政権はイランと同様、輸入を統制し、銀行を国有化した。
これらの動きはすべて、グローバル自由市場への見通しを暗くするものだった。80年代初頭フリードマン主義者は自分たちの進めてきた革命が10年も経たずして、新たなポピュリズムの波に押されて頓挫するという状況に直面していた。
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救いの神としての戦争
サッチャーがハイエクに手紙をしたためてから6週間後、彼女の考えを改めさせ、コーポラティズム改革の命運を変える事件が起きる。1982年4月2日、アルゼンチン軍がイギリス植民地主義の名残で同国が実効支配していたフォークランド諸島に侵攻、フォークランド紛争が火蓋を切って落とされたのだ。もっともこれは歴史的に見れば、激しくはあったが小規模な武力紛争にすぎなかった。当時、フォークランド諸島には戦略的な重要性は何もなく、イギリスにとって自国から何千キロも離れたアルゼンチン起きに浮かぶこれらの島々は、警備や維持に高いコストがかかった。アルゼンチンにとっても、了解にイギリスの前哨基地があることは国家の自尊心への侮辱ではあるにせよ、この諸島の有用性はほとんどないに等しかった。伝説的なアルゼンチンの作家掘るヘ・ルイス・ボルヘスはこの紛争を、「二人のハゲ頭の男が櫛をめぐって争うようなもの」と痛烈に揶揄した。
軍事的観点からも、三ヶ月にわたった戦闘にはほとんどなんの歴史的意義も認められない。しかし見過ごされているのは、この紛争が自由市場プロジェクトに与えた影響の甚大さだ。西側民主主義国に初めて急進的な資本主義改革プログラムを導入するのに必要な大義名分をサッチャーに与えたのは、ほかでもないフォークランド紛争だったのである。
中略
自国の労働者を「内なる敵」と位置付けたサッチャーは、国家の総力をあげてストライキの鎮圧にかかった。ある一回の対決だけでも8000人もの負傷者が出た。ストライキは長期にわたったため、負傷者は数千人にも及んだ。『ガーディアン』紙のシェイマス・ミルン記者による炭鉱ストライキのドキュメント『内なる敵_炭鉱労働者に対するサッチャーの秘密の戦争』によれば、サッチャーはセキュリティーサービスに、炭鉱労働組合とりわけアーサー・スカーギル委員長の監視を強化するように明治、その結果「イギリスでは前代未聞の監視活動」が行われることになる。
中略
1985年、サッチャーはこの戦争にも勝利した。労働者たちは生活の逼迫から、もはやストを続行できなくなったのだ。その後966人の労働者が解雇された。
中略
イギリスでは、サッチャーはフォークランド紛争と炭鉱ストでの勝利を利用して、急進的な経済改革を大きく前進させた。
中略
ミルトン・フリーマンが『資本主義と自由の序で、ショック・ドクトリンの本質をつく影響力のきわめて大きい次の一節を書いたのは1982年のことだ。「現実の、あるいはそう受け止められた危機のみが、真の変革をもたらす。危機が発生したときに取られる対策は、手近にどんな構想があるかによって決まる。われわれの基本的な役割はここにある。すなわち既存の政策に変わる政策を提案して、政治的に不可能だったことが政治的に不可避になるまでそれを維持し、生かしておくことである。」新しい民主主義の時代において、この言葉はフリードマンの提唱する改革にとってのスローガンとなる。アラン・メルツアーはこう解説する。「構想というのは、危機の際に変化の触媒となるために控えている選択肢のことだ。フリードマンの功績は、そうした構想を正当な理論として十分耐えられるものにし、チャンスが到来したときに試す価値のあるものにする、その道筋を示してみせたことにある。」
フリードマンの年頭にあった危機とは、軍事的なものではなく経済的なものだった。通王の状況では、経済的決断は競合する利害同士の力関係に基づいて下される。労働者は食と賃上げを要求し、経営者は減税と規制緩和を求め、政治家はこうした対立する絵視力感のバランスを保とうとする。しかし、通貨危機や株式市場の暴落、大不況といった深刻な経済的危機が勃発すると、他のことはすべてどこかへ吹き飛び、指導者は国家の緊急事態に対応するという名目のもとに必要なことはなんでもできる自由を手にする。危機とは、合意や意見の一致が必要とされない、通常の政治にぽっかりあいた空隙_言わば民主主義から解放された“フリーゾーン”なのだ。
市場の暴落が革命変革にとっての触媒になるという考え方は、極左思想においては長い歴史を持つ。なかでも有名なのはハイパーインフレが通貨の価値を破壊し、それによって大衆は資本主義そのものの破壊へと一歩近づく、というボルシェビキの理論である。ある種の党派的な左翼が、資本主義が「危機」に陥る条件を厳密に割り出そうとしたり、福音派キリスト教徒が「携挙(ラプチャー)」の兆候を見極めようとしたりするのも、この理論で説明がつく。この極左理論が80年代半ば、シカゴ学派の経済学者に注目されたことで力強い復活を遂げる。市場の謀略が共産主義革命を促進するのと同様、これを極右(注)の反革命の起爆剤にもすることができるとかれらは主張した。のちに「危機仮説」と呼ばれるようになる理論である。
注)このばあいの”極右”は著者の言う原理主義的資本主義者という意味だと推察する。
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