2015年6月25日木曜日

関東での見学、トーク、WS、上映会

6月の2週目は関東へ行き、まず捩子ぴじん氏のリハーサルを見学する。直前のわりに落ち着いてる。つまり自分に普通に自信を持って試行錯誤できてる感じが、なーんか大人になったねえ、と本人にも伝えたほどだった。人としての成長も作品づくりにかかせないよね(私にとっても)、順調じゃん!と思った。この時点でもかなり興味深いシーンがあり、この先ますます練り上がって高まっていくのだろう。本番見れなくて残念だけど映像送ってもらう。

山縣太一氏の公演アフタートークをやる。
私が最初に「私的解剖実験−2」を上演したSTスポットで、その作品にインスパイアされたことがきっかけで今の太一の活動があると思うと、そうやって全身全霊で受け取ってくれたこと、そのことで自分をぶれさせずに立って自治的な活動していこうという流れになっていったこと、すべて本当にうれしいことだ。しかも、彼自身が受け取った事を彼の中で昇華していったことが作品に結実している。見事だった。彼に出演してもらった「私的解剖実験−4」のとき、観察することによってかなり苦しい思いをした彼だったが、まだ私も未熟で「観察」と「監視」は違うということを強調できずに、苦しい思いを防ぐことができなかったことを後悔している。後悔してもしかたがないけど、今彼に伝えたい事はそのことで、自分に対しても、人に対しても「監視」じゃなく「観察」だよと言いたい。どう違うかと言えば、「観察」は善悪の判断をしないこと。裁かないこと。これが「観察」の大前提だと、太一だけじゃなく今まで振付けに出演してくれたみんなに伝えたい。

連続ワークショップと耐久上映会をやった。
たくさんの人が参加してくれて、それぞれに切実な動機があって、それに答えることの重要さが大きかった。上映会でも、見てくれた人に役割があるそういう実感がとても大きかった。「私的解剖実験−6」は実際に上演したとき以上に、あのエッセンスを欲している人々との出会いが止まらない。そしてやっぱり重要なテーマは「観察」と「監視」は違うということ。みんな一様に自分に対する「監視」という枷を抱えている。「観察」は、ただ見る感覚。感じる、と言い換えてもいい。感じた事、認知したことに対して判断しない。たとえば「誰かを殺したい」という思いを抱えていたとしても、それをただ感じる感覚「観察」の感覚があれば殺したりしない。連続ワークショップの最後は「内発性」から声を出すワークだったけれど、内発的な状況に移行するときに、それらを邪魔している何かに対する感情が少なからず湧いてしまうものだ。それらは悲しみだったり怒りだったり恐怖だったりする。そういった感情が湧いて来るからこのワークは危険な部分もある。そういったときに「観察」がないと、より危険になると思った。「観察」の感覚を手放しさえしなければ大丈夫。そして何かあったときにそこに戻れる。しかし「観察」できる力にはおそらく時間がかかるから、本当は長期のワークショップが必要なのかもしれない。

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