2011年11月30日水曜日

男の子たち

今日は息子の友人が来て、同じ学年の男の子なので二人ともハイテンションな一日を送っていた。
ばかでかい飛行機をつくって飛ばしてみたけど重くて飛ばないらしい。
ハイテンションな音楽セッションをして、ハイテンションな物の投げ合いから、新聞紙の棒で殴り合っていた。
こういうハイテンションな欲求って私はあんまり知らない。男の子だなあ。ちょっとうらやましい。
素敵なおばかさん。陽のエネルギーというか…。

その間に、仕事上で書かなければならない文章を書いた。
文章を書いているとき、自分自身が何を求めているかいつもチューニングする。
前より、自分の欲求が少しはっきりしてきているように感じる。焦点が合わせやすくなっているように感じる。

2011年11月29日火曜日

メンテナンス

昨日に引き続き午前中調子があんまり良くない。
関節がもやもやと重い感じで、寝たくなる。

今日はやらなければならないこともあるので、なんとか状態を良くしたかったけど、家にいるかぎり無理だなあと思って、外に出かけてモッコスコーヒーに行った。いつも、外でコーヒーを飲むというのは何かのきっかけになることが多い気がする。単純に午後になったので調子が良くなっただけかもしれないけど、午前中からもやもや考えていたことに少しけりがついた。

私は小さなメンテナンスをし続けることが苦手で、とくに家のことや植物のことや電気製品のことはそうだ。
なんとも、かんとも、どうでも良くなってしまうことが多く、子供がいるので、あきらめないでなんとかしようと思ってきた。
結局今、大きなお題目を考えて盛り上がったりするよりも、小さなメンテナンスをやりながら観察するということを続けるほかは無いし、作品作りに関してはそうやってつくって来たわけなんだから、できるんじゃないだろうか?また挫折するのだろうか?

作品づくりや活動に関しても、自分がどうしたいかよくわからなくなったり、何かを発想してみても、すぐに気乗りしなくなってしまったりということがあるけれど、自分が何に引っかかってるか、どこに行きたいと思ってるか、潜在的な欲求を丁寧に観察するべく、小さな違和感や不快感をつもらせずに観察していくより他はない。

2011年11月28日月曜日

背中の観察

立禅をするといろいろなからだの状態を観察することが出来る。
何もしないよりずっといろいろ見える気がする。

背中の中程の感覚がすごく無い。
首のところで何かが途切れている。

立禅中に回復できる可能性について探ったけれど今はだめで、腰の腎臓あたりに手をあてると気持ちいいしからだが求めている感じもする。

ともあれ、低気圧の呪縛から少し解放された。

低気圧

気圧が下がって行く沼みたいな感じが近づいている、というかその中にいる感じがする。
沼に引きずり込まれそうに手足から力が抜けて行く。

おっくう、というからだ。

どうやってやりすごそう。

2011年11月27日日曜日

とりあえず生活していくということ

とりあえず生活していくという地盤があって、それぞれのダンスなり演劇なりの活動というのはあるけれど、それはフリーターという労働形態でかろうじて生活して行くことができる。そういういう条件が満たされる場所、つまりある程度の都市的空間でのみ可能なのだということか?

どこから文化的なエネルギーは発生するのだろう?

どこから創造的な関わりやそれによる動きというのは生まれるのだろう?

何が人をそうさせるのだろう?

可能性のある場所に、何か、ある条件がひとつ加わることで、爆発するように生まれるというようなことを夢想してみる。

だけど、生活、という地盤について考えると、重い…。

経済の変化によって、もしお金というものが価値をなくしてしまったら、何が地盤になるのだろうか?そういったことを現実に考えて行かなければならないと思う。想像力がそういうことに働かないのは、過剰に依存して生きてきたからだと思う。退廃的になりたくないとしたら、依存と共犯からできるだけ等身大にに脱却する方法を探さなければ。

きりんがおしりと名付けたトマトを食べる




2011年11月26日土曜日

きりんなりの消化


効率の悪いメディア

からだというのはメディアなんだ。
アデェの芸能は古くから伝わっているものでも、歌に載せて送る内容は現在の彼らが共有する何かだ。
それはメディアとしての機能が今でも生きているということで、そこにはまだ、芸能の生きた脈というものがある。
私たちがやっていること、ダンスであるとか演劇であるとか音楽であっても、ジャンルというものには関係なく、身体というものを通してからだに何かを伝えるメディアで、それは当たり前と言えばそうだけれど、からだというものがどういう性質のメディアなのか、それは簡単には言えない。ひとつ言えるのは同時に大量の人には伝えられないということであり、また、相手が一人であってもそこからどこかに繋がっていけるようなメディアでもある。伝染力と言ってもいい。それは、とても潜在的なところに響くし、無自覚的に受け取るものだ。それがとても面白い。と今ではすごく思える。

2011年11月24日木曜日

流れの受け取り方

音楽というのはどこからか流れてくるもので、それを身体で自然に受け止めることが出来るという意味で、ダンスよりはずっと自然な脈を保っているように感じる。「ダンス」といっても「踊り」といってもいいけれど、自然に流れてくる何かを知らないうちに身体で受け止めてしまっていた、というような無意識の領域の作用というのは、芸能を継承して来たコミュニティー以外ではほとんどないように思う。

今は、無意識に流れてくるのはテレビの情報が一番大きいのかもしれない。そこで流されている内容以上にそこに存在する身体というものが、見流している人の身体のどこかに侵入していくということも起きているかもしれない。でも、そうか、近くにいる人のからだ、指示をしてくる人のからだ、その指示を受け取ろうとするときに「からだ化」というのは起きているのだろう。そしてそれを知らないうちに発信してもいる。

「からだ化」の観察方法について、見て行くということか?

突き上げ

すごく何かがやりたい。
という衝動がやんわりと突き上げてくる。
創作に関わる何か、実験なのか、行動なのか、文章を書くことなのか、誰かにしゃべることなのか?
たぶん、とりあえず誰かにしゃべりたい。しゃべりながら吐き出したい。
吐き出すことで見いだしたい。

2011年11月22日火曜日

中学生の遊び

家の近所に大きな瓦屋さんのお屋敷があって、最近そこを舞台に中学生たち数名がモデルガンのようなものを持って遊んでいる。
今日は、お屋敷の屋根にまで登って、まるで刑事映画さながらの風情で打ち合って?いる。
ちょっとだけゾッとするけど、顔は何ともあどけなくて、まあ微笑ましいと言えなくもない。
ゲームの中だけの打ち合いにくらべれば、現実感があるような気もする。

小学生だったころ、トランシーバーのおもちゃを買ってもらって、それを使って近所をうろつき回って人の家の塀まで伝って歩いたのを思い出す。あれだって、ゾッとされてたかもしれない。

2011年11月21日月曜日

寒くなって代謝が落ちる

寒くなった。昨日の夜から急に寒くなって足の付け根あたりがキューキューと縮こまってそれでもなかなかあったかくならない。
家はすきま風が入るから、藤野の家と同じなのだ。
そして、いろいろやらなければならないことが溜まって代謝がわるい。焦る。焦ると余計に詰まってくるので余計に効率が悪くなって行く。
身体のことをやっても焦っているから上滑りだ。
少しずつやって行くにつれ落ち着いて行くだろうとは思う。
気が高まるときというのが少ないので、晴れていてそういう時は焦ってばかりだ。
晴れと雨の身体の差、気持ちの差をうまく乗り越えたい。

2011年11月20日日曜日

家の湿気と身体の湿気

家は古いので、雨が降る日はなんとなく家全体に湿気がしみ込んで重くなるように感じる。
そうすると、やっぱり身体も同じように湿気がしみ込んで重くなる。
今日は夕方日が差し込んで久しぶりに乾いた空気が流れた。そうすると家の風景もいっぺんして、呼吸を吹き返すように見える。
それで、自分もなんだか心が軽くなっていろいろ明日からの計画を考えたりする。
熊本での活動というのはどういう可能性があるかどうか?少しずつ動いて行こう。
コンテンポラリーダンスにおいての、あるいはもう少し広域にはみ出した芸術活動の可能性、また、「インフラ」とは何か?
どこにアウトプットするのか?だれにアウトプットするのか?どんな役割の可能性があるのか?
丁寧に考えて行動を積み重ねて行こう。行き止まりになっても、その感じを観察して根気よく行こう。

2011年11月18日金曜日

迷いのからだ

若いダンサーと関わっていると時々自分とは違った問題を抱えていることを発見する。
かなり長く関わって、作品でも深くやりとりしているつもりなのに、時々全く分からなかったことが判明して驚く。
いったい何を見ていたのだろう…と自分の観察の至らなさを思う。
問題の要は、「本当に感じていることが自分で分からない」ということがあって、それを本人も気づかない。
そうすると、本当にどうしたいか?というのが分からなくなる。
けれど本当に、本当の要というのは、本人の問題というよりは連鎖の問題としてあるということにも思い当たる。
結局は連鎖性の問題が人を本質的に抑圧しているのだとつくづく思う。その問題にどうやって向き合ったら良いのだろうか?
そういう意味では自分もその問題にとって例外ではなく、渦中にあるということをもう一度深く思い直し観察する必要がある。

2011年11月14日月曜日

鬼の斧

花祭で、山見鬼が斧を振るうその瞬間、空間に何かの衝撃が走って自分の深い所で何かが弾ける。始めての感覚で震えが来た。見終わってその神聖さに深く打たれた。
昼から始まって次の昼までの長い祭典の一日に様々なドラマが散りばめられていた。
ほとんど心身のギリギリまでやりきったさらにその先を超越していく、恐ろしく長い旅のひとつひとつが重ねられる。

2011年11月11日金曜日

フトコロの深さって何だろう?
御園の花祭の準備に同行させてもらえて、だしがしみるように内臓にしみてくる思いは、とにかく御園の人々の懐の深さへのありがたさだ。かけねなしに、さりげなくおもてなし、湧き出る乳のようなふるまい。

今日、誰もいない舞庭を見たとき、胸にこみ上げる何かが沸いて来た。

2011年11月9日水曜日

ジェコの幼少期には、男も女も裸で森を駆け回っていたのだろう。
私にとって裸というのは、家の中と温泉の中以外では考えられないし、考えて来なかった。
服を着る事について、文化としての裸について。舞台表現としての裸について考えてみよう。

2011年11月8日火曜日

口笛の体

長距離バスに乗って大阪に到着すると、高架下の殺伐とした道路脇で、ひょろっと背の高い猫背のおじさんが口笛を吹きながら交通整理をしていた。自分の中には歌がある、そういう誇らしさを染み込ませた体の領域が生き生きと、そこに一つの景色を密かに生み出している。

労働歌と、生きるモチベーションの関係について思いを巡らしたくなる。

2011年11月7日月曜日

掃除した

今仮住まいしている場所はとても古くて土台も多少腐っているといううわさですが、ときどき猫が珍入して、鰹節とか食い散らかしたりゴミをあさったりしてしまうので、汚く臭くなっていく。それで昨日はその中心になる猫の部屋を(本当は息子が自分なりの神社をまつった場所だけど)塩を撒いて掃除機で掃除して、酢水でぞうきんがけして、それから息子の気が済むようにきれいに物を配置した。おまけに、お香を炊いた。どうしてもこの辺で炊きたくなるというような場所がある。隅のじめじめした所。お香を炊くとそこの悪い気がなくなるような気がする。
また、うちはボットン便所だから時々虫が出るのだ。恒常的に虫とつきあうし、そうじゃないクリーンな住宅での生活というのがちょっと客観的に見えてくるということもある。


風の谷のナウシカのコミックを今更ながら読んでいる。ちゃんと読んだのは初めてで、その両方の経験がなんとなく私の中でつながるような感じがしている。

清めるとか払うとかそういうことについて考えさせられた。

2011年11月6日日曜日

塩屋

熊本に移住して4ヶ月近くが経とうとしている。
私が住んでいる小川には塩屋という文化拠点がある。
そこは商店街の中にあって、不思議な出会いの場となる素養がある。

昨日は、そこで友人たちと企画したはんてんづくりのワークショップを行った。
元々熊本出身の和裁が専門の女性が先生だった。

そのワークショップとは別に様々な人が塩屋に訪れた。
小川は最近避難してくる親子がとても増えて来ている。
その人たちがぞくぞく訪れてとても活気に満ちた時間になった。
それというのも、たぶん森田さんというものすごいパワーのある女性がキーパーソンになっている。
私も、森田さんのパーソナリティーに引かれてここに引っ越したのだ。

そこで、はじめて東北から引っ越しを考えているという家族に出会った。
彼らは、本当に疲労と悲しみと様々なストレスを抱えているということが身体に現れていて、それはとても壮絶だった。
はじめて、そういう壮絶さを目の当たりにしたように感じた。
放射能に過敏な体質のせいで、放射能によるやけどのような皮膚のただれも引き起こしているという。
帰り際は少し明るい顔になって、「いっしょに踊りたいです。あなたは、気持ちよく身体を使っているように見える。ワークショップやってください」と言われた。なんかだか、とてもうれしかった。再会が楽しみだ。

2011年11月2日水曜日

また、だましだまし書こう

なんとも、時間がずいぶん経過した。
自分のダンスの仕事に対して、集中しきれないなにかを抱えていたように思う。

少しずつ、そういう動機を取り戻しつつある。
捩子ぴじんの公演を見て、忘れていた何かのスイッチが入った。
彼にはいつも、何かのきっかけをもらってる気がする。

寅雄氏はエンジン全開だ。
私も慎重にもう一度、自分を起動する。

もう一度観察から。
しかし、観察とは何か?
観察とは、全てに意識的になるということだけではないはず。
の、意識的ではないままでいいことに対する観察の方法とは何か?

まずは自分の身体の不調から観察。
夕方くらいに過剰に眠くなる。
手首の外側を細かく感じるように観察してみたら、身体全体が何か違う状態にシフトして、乗り越えることができる、ということをもう一度思い出す。