2015年5月15日金曜日
制作日誌12 衣装却下 パソコン逝く 新アイデア浮上
2015年5月14日木曜日
制作日誌11 身振り ナンバから南蛮へ
私的解剖実験−6のファイルの中に福岡市博物館でもらった常設展示の解説「身振りー都会と田舎のしぐさー」という解説書があって読み返してまたいろいろ考えさせられた。かつての日本人の歩き方は「ナンバ」であったが、それは「南蛮」という言葉から来たと言われる。しかしこの書ではその説をあやしいとしている。日本舞踊では「ナンバ」と「南蛮」、二つの歩きの方を今に伝えていて、上体を捻らない足の運びをナンバ、人形の降矢滑稽実を出すときに用いられる手を振る動作を表現したものを南蛮といい、使い分けがあるようです。これから考えられることは、手を振らずに下半身の力だけで進む歩き方が、固有の身振りであったということでしょう。南蛮という言葉は手を振るのは西洋由来のものであることを伝えていることになりますね。現代の歩き方(つまり南蛮)の起源は明治18年から全国で実施された「兵式体操」にあるようです。西洋の身振りを取り入れた学校教育で訓練されたものです。
このように、私たち日常の身振りでさえ「正しい」とされる基準あらわれて、それまで自然にやっていたことを強制的に変更させられている。それを「虚像化」と呼んでいいのではないか?と思う。「正しい」基準は俯瞰した視点から私たちを見た結果で、その視点が私たち自身に貼付けられ続けていることが、虚像化を止められない原因のように思えます。
写真は記事とは関係なく、よもぎとどくだみ(野草茶にする)と草イチゴを庭で取ったものです。
2015年5月13日水曜日
制作日誌10 デトックス 花祭り 通し稽古
きのうは捩子さんがデトックスダウンしていたけれど、22時くらいになってデトックスおおむね完了したようで復活し、通し稽古に付き合ってくれた。自分でも覚えきれないほど段取りがあるけれど、通しにそなえてその中のひとつひとつを検証していく作業の中でいちいちその時起きていた事にトリップしてしまう。きのうは花祭りのリサーチに行ったときの映像を見返しながら、もう一度その土地の人々の深さ、自然さ、本当のやさしさに触れて涙が出た。通しでは捩子さんに的確なアドバイスをもらって更に推敲して行く。
2015年5月12日火曜日
制作日誌09 ねじさんが来てくれました
昨日は、今制作中の作品の後半部分を整理して、家でやってみた。その前に捩子ぴじん氏が釜山から船で福岡まで来て、我が家に寄ってくれたので見てもらった。「本当に名刺だね」と言ってくれた。夜にスギナとヨモギとマリーゴールドのお茶(自家製)を飲んで寝たら、ねじさんはデトックス状態で熱と汗の夜だったらしい。まだ休んでるけど起きたら初めての通し稽古に付き合ってもらう予定。それにしても段取りの番号が42もある。この作品は15年分の模索をつめこんであるだけに長い旅のような内容になってきている。
2015年5月9日土曜日
制作日誌08 今回は実験じゃないけど
いつもは実験そのものが立ち上がるまで、ピントが合うまでにかなり迷走して何をやっていたのか、何をやりたいのか分らなくなってしまう時間を長く過ごすけれど、今回の作品は目的がわりとはっきりしている上に、実験そのものを立ち上げる必要がないので、大枠を早く作ることができている。でもその中でも初めて取り組むことが一つあって、その制度をあげるための試行錯誤が始まっている。そしてやっぱり本番のその時に立ち上がることを大切にするという意味ではやっぱりその重要なところは変わらないのかもしれない。
2015年5月8日金曜日
制作日誌07 「監視」と「観察」
ゴールデンウィークのメインイベントとして家族で自転車旅行してきた。リュックに食料や寝袋や山用のコンロや着替えやらを詰めて山のような背中で自転車に乗って40キロあまりの距離を峠2つ半くらい越えた。体で自分の限界を知ったり、だめだと思っても大丈夫な体力って結構残ってたり、自分で持った分だけが使えるという感覚を知ったり、自分の力でやる分だけ自由だったり。拮抗する力を少しだけ強く出来たような感覚があって壮快。「達成感」とかそういうのじゃなくて、その時々の実感を生きている時間が豊かだなと感じる。自分ってこの程度っていうのは悪い意味じゃなく、人間の力は限られてることをちゃんと身を以て感じつつ、その中で最大限力を発揮できるかどうかは自分の内発性にかかってるように思う。帰って来てその日のうちにワークショップの最終回だったのでハードだったけど、受講してくれたみなさんがすごく内発的欲求高くて揺さぶられた。行く前より元気になったくらいだった。そこで重要なことが浮き彫りになった。内発的な状態は「観察」をすることによって健康的に保たれる。「観察」の視点なしに行うのは危険。また、現代では常に自分にも人に対しても「監視」の視線を投げてしまうけれど、「監視」の状態も「観察」することが可能。しかし「監視」の視点からは「観察」は見ることができない。だから常に「観察」の方に自分の主体を感じている事が重要なのかもしれない。
2015年5月3日日曜日
「15年の実験履歴」制作日誌06
ゴールデンウィークに突入して今日は雨の中寅雄氏ときりんは自転車で1時間くらい海の方まで行って神事を見ていたみたいですが、私は作品の構成を考えるために1日缶詰でした。貧血気味で頭がボーっとして午前中はテニスコーツの歌をずっと聞きいってしまった。深いところが浄化されるような感じがする。そういった役割の持てるアーティストもいる中、私はそれぞれの作品を見てくれていた人々に役割を持ってきたのだろうか?今そんなこと言っても始まらないのでとにかく今できる最大限の編集をしていこう。いくつかの角度から作品を照らしていくことで別の次元が開かれていくようなものになったらいい。しかし15年はやはり長い。一つ一つの作品の密度も濃いので、重量感が増してしまう。深刻にならず楽しめる方向に舵を切れるかどうか。
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