私がスマホを持たなかったのは、未だに持っていないのは、それに依存することが何がしかの管理されることに繋がる予感があったからだ。マイナンバーが始まった時にもいやな予感があった。何かしらイノベーションがあったり、何かしら便利で合理的に思えるシステム転換があるときは、その先にどんな可能性があるのかを無意識のうちに感じ取る癖がついている。なぜだろう?昔から過管理社会になって、そこで戦っているような夢をよく見ていた。過管理社会への恐怖感が昔からあったのかもしれない。コロナの騒ぎが始まったとき、「連帯してこれを乗り越えよう」とか、「ステイホーム」とか、そういったフレーズを友人、知人がフェイスブックで投げかけるのを見て、何かしらとても居心地の悪い気持ちになった。それらの言葉が意味することが、何かからのプロパガンダや印象操作の結果のように思えたからかもしれない。ということはそれ自体が何者かのデザインされた結果の行為であり、その先に何かしら、行動規制を拡張させた非常にいやな社会への移行をイメージしたからかもしれない。そういった自分の感覚は、それを感じていない人にとっては過剰だったり偏って感じたりするかもしれない。しかし感じてしまう自分の役割みたいなものもあるかもしれない。どのように、その役割を見つけていけばいいのかは、まだわからない。
2021年9月16日木曜日
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