桐野夏生作「日没」を読んでいる。ある日、不条理に閉じ込められてしまった主人公が、従順にすると小さなご褒美をもらえることに気づき、その延長線上で逃れられると考える。しかしある時、いくら従い続けてもそこからは出られないと気づく。というような内容で、このようなロックダウンからの条件付き自由への道を歩んでいる途上では、気が滅入ってしまうような内容だ。それでも過去の学校での出来事なんかも浮かんできていろいろ考えるきっかけになっている。
たとえば、「しつけ」は子供のため、規則は社会のため、そういう雰囲気の中でゆるく様々な抑圧が学校の中にはあったこと。また、それが今の状況とも重なっていろいろな想念が浮かぶ。感染防止のためにマスクをする。これは私たちを守ってくれているのだ、と感じる人々もたくさんいるだろう。しかし、私にとって白く定型のマスクをすべての人々が着用している姿はまるで服従のシンボルのようだ。人と会う人数が決められ、コロナテストが義務ずけられ、夜の外出が禁じられていて、そこに議論の余地がない。そんな中で真っ白な定型のマスクをする人々の姿は、すべての人々が規制に対して肯定的であるというサインとして眼に映る。また、意に沿わなくてもその行為を繰り返し続けると、人は批判的なものの見方を続ける気力を少しずつ失っていく。学校文化の中では意に沿わない校則でもそれをし続けることで形成される意識というものがあったのかもしれない。マスクや人と会う人数、外出禁止などにもそれと同じような効果を感じる。また、規制が緩んだり、厳しくなったりすることを繰り返すと、恐怖心が増していき、厳しくなる要因となることを避けることが正しいと感じるようにもなっていくだろう。その規制自体が正当か、それを与える権限そのものが妥当かどうかを問うことなく、とにかく規制が厳しくなる要因をなくす。例えば部活で誰かが規則を違反すれば連帯責任で罰せられる。その規則自体が妥当か?それを課す権限は妥当か?問うことなく、違反した人間を恨んだり、攻撃したりする。それによってより生徒が制御しやすくなる。現状の中でも、「感染者数の上昇」はマスクをしてない人がいるとか、誰かが人と会ったりご飯を食べたりしたとか、ワクチンを摂取しない人がいる、など、その規制そのものが妥当かを問うことなく、お互いを見張って指摘することで分断する。それは、規制する側にとって非常に楽だ。数字を操って好きなだけ人を恐怖に陥れたり、規制を強めたりしてコントロールできる。恐怖でコントロールされることが続くと正気を保つことがどんどん難しくなる。そして、そこで求められてることに無条件で応えるようになっていく。
自分が感じていることを、感じてるままに書いたり話したりすることは、そのまま、違う感じ方の人を傷つけたり、攻撃したりしているように感じさせてしまうかもしれない。だから、他のところに意識を向けたいと思うが、いかんせん修行が足りない。私は私でいっぱいいっぱいなのだ。このような状況下でも、感じ方の違う人と一緒に心をひとつにできることはきっとある。そのひとつは未来に思いを馳せることかもしれない。たとえば10年後どうなっていてほしい、というような。
0 件のコメント:
コメントを投稿