縁起には良い方向と悪い方向の両方に対して同じように平等に開いている。あるいは、悪い方向に見えてもどこかでそれが裏返るかもしれないし、良い方向に見えてもそれが裏返ってしまう可能性もある。縁起には良いも悪いもないのかもしれない。でも、うれしいことがあれば、その嬉しい感じが別の人に影響を及ぼすものだ。イライラしていれば、やっぱり誰かにその影響が及んでしまうだろう。その中で、一番まずい伝搬は「恐怖」なのだと確信するようになった。
近代の幕開けは、人がより理性的であろうと努力したことだと言う説がある。つまり、物事を客観的に観察し、何が真実かを証明し、より効率を求めて、その結果科学や技術が発達し、食料の受給率も高まり、流通し、人々が豊かになる…というように。しかし、今の世界で起きつつあることがその結果だとしたら、これを「理性的」な人々の行為と言えるのだろうか?企業が利益を追求する。そのためにはできる限り法の網をかいくぐってより利益を追求する。ずっとずっと利益が増え続けるように追求し続ける。それが理性的な行為だろうか?そこで起こる弱肉強食の勝者がより利益を追求する。人々が得る情報はすべて勝者の利益に有利になるように操作できる。例えば「原発」に関するネガティブな情報は、東日本大震災までほとんど報じられることがなかった。そういった暗黙のルールの中にいても、それを人々が全く意識しないで暮らせるようなメディアの「空気」というものが存在した。それほどに勝者は信じられないほどの勝者なのだ。ある企業が法の網をかいくぐるために、とある権力のある部署の人間といい関係を持つ。そういった人々はそのいい関係のおかげでより力を得る。良い関係を持つ権力者の範囲がどこまでも上の方までいけばいくほど、その企業は、あるいはその企業の一部の人間は有利になる。だから、いろんなところに様々な不正や癒着があるのを私たちは知っている。おおよその人々はそういったことと無縁であっても。それらの不正や癒着はときどき公になるけれど、それらもなんらかの弱肉強食的ないとなみの一部なのだろう。そういったことが、一つの国の範囲を超えることもありだろう。このグローバルなご時世にあっては。いわばグローバルな勝者だ。国際的な機関とのいい関係を持っているグローバルな勝者。グローバルな勝者といい関係を持つことで国際機関の一部の人間は何か良いことがあるのだろう。しかし「グローバル」であればあるほど、それらがもたらす人々への印象は何かしらとても良いこと、のように仕立て上げられている。そのための専門家が力を尽くしているので、それはとても簡単なことなのだろう。そういったコーティングされた硬い前提の地盤の上で推奨されている「社会正義」は、それとはわからない形で勝者を後押し、目的を達成させる。勝者は圧倒的に、より盤石になることで、人々の財産や権利や自由をそれとはわからない形で奪いつづけることが可能になる。人だけでなく、自然界のバランスも奪いつづけることになるだろう。世界が弱肉強食なものだと開き直れば、それを受け止めつつ生きることもできるだろう。そんなふうに、厭世的生きるのはやっぱりしんどい。そのせいで自分も何かしら悪い影響を人に与えつつ生きるのはつらい。
勝者と言っても、もし彼らが人々から様々なことを奪うことによって勝ち続けているとしたら、実際には、知らないうちに様々なダメージを身に受け続けていることだろう。奪われて打ちひしがれる人より、奪って勝ちほこる人の方が実際には身に受けるダメージはひどいのではないかと想像する。そして、勝ち続けられるかどうか、出し抜かれないかどうか、怒りの矛先にならないかどうか、立場を失わないかどうか、常に戦々恐々としていることだろう。つまり、大きな恐怖の中に晒され続けることになるだろう。その恐怖のために、人を抑圧し続けることになり、そのことによるダメージがまた常にその身にもたらされ続ける。悪循環というやつだ。そして、さまざまな専門家やAIをそばに置いても、やれることは限られている。ほとんど一つくらいしか選択肢がない。さまざまな技術を用いていろいろなことをしていても、本質はほとんど一つなのだと思う。もし、このことに人々が気づくようになれば、気付きさえすれば、人々がその勝者に対してできることは無限にある。可能性というのはいつも無限に開かれているのだ。
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