Kyoto
experimentにて水の駅を見た。原作は太田省吾氏、演出はシャンカル・ヴェンカテーシュワランさん。この舞台には、私の友人であるスリランカ出身のヴェヌーリも出演していた。
ある一定の時間を引き伸ばされたような動きは、自分のプライベートトレースでも取り組んだ方法に近い部分もあるが、「演技」という側面では大きく違うのかもしれない。引き伸ばされた動きの中に含まれた感情が、神聖さを伴った何かに見えるシーンがあり、自分の深いところの何かが揺さぶられた。そのことが断片的であってもこの作品全体を覆っていた。
私にとって大きかったのは、「水」が象徴している何かで、それは記号を超えて私の中に何かを呼び覚ます。演劇では比喩が多用されるのが常で、それが頭を満足させるような知的経験として見えるときには私には何も伝わってこない。しかしそれ自体が「見立て」の効果、つまり呪術的な作用によって、体、あるいは心にもたらす臨場感というものがこれだけ強くあるのだ、という経験を、この劇がもたらしてくれた。それは、この劇を見たタイミング、自分の今直面していることと深く関係しているかもしれない。
直接社会的な問題に触れなくても、同時代に生きる人々の「生き死に」に強く働きかけることができるのだ、ということを学ぶ機会であった。